日本でとても人気の高い画家であるミュシャ。
繊細で精巧で装飾的な
彼の夢見るポスターの数々は
日本の乙女たちまたは少女漫画の世界にとってのまさに神。
この下書きの絵を見ていると
<その頃、村では春祭りの準備がすすめられていた>
というト書きと
「わしも、もうとしじゃからのぅ」「しっかりしなよ、じいさん」
「あんた好きな子でもできたのかい?」という吹き出しが入って
そこから健気な少女の冒険ラブロマンスが始まりそうな気配である。
そのメルヘンなミュシャが劇画タッチの歴史大長編に挑んだのが
「スラブ叙事詩」であり、
その作品は現在東京の国立新美術館で公開されている。
(2017.3/8~2017.6/5)
「スラブ叙事詩」はミュシャが後半生のすべてをかけた
全20枚の巨大な絵画作品で、
大きなものは幅が8メートルもある。
それまで制作していたポスター作品の
数十倍から100倍にもなるサイズである。
単純計算するとポスター2000枚分の労力を傾けた作品
ということになる。
なぜ、それだけの大きさでなくてはならなかったのか。。。
もちろんそれだけの「気合い」と「意気込み」の
あらわれでもあったのだろうけれど、
それよりもこの作品が民族主義・ナショナリズムの
<舞台装置>として位置付けられていたからなのではないだろうか。
等身大で鋭くこちらを見つめる人物たちは
その絵の鑑賞者をスラブ民族世界へ強く誘う。
その誘い方は消費者を商品世界へ誘うポスターの手法として
ミュシャが確立していたものだろう。
この有名な作品の前に集まる人たちを見ていると、
絵の中の人々とその絵の多くの鑑賞者たちが
一体の群衆になってしまったかのように感じる。
絵が人々を熱狂的な「民族」の世界に巻き込んで、
神話の前に新たな「国民国家」を築こうとしているかのようである。
しかしその周到な民族主義的表現の果てには、
意外にもナチズムの幻が現れ
この一枚は放棄されることになった。
壮大な物語が作者の意図を超えてしまったのである。
そして平和の大団円になるはずだった最後の一枚には、
近代国家間の鋭い対立が見え隠れするようだ。
二次元の装飾的空間は
ミュシャとその乙女たちにとって
予定調和的な安全で平和なものであった。
ポスターの女性像の背景に描かれた円は
その平和の領域を示すものだった。
しかし、その閉ざされた円環から
奥行きと時間のある世界に飛び出した彼は
未来の見通せない複雑な現実と向き合い
巨大な作品群れの迷路の最終局面で
失意の袋小路に追い込まれることになる。
この1枚は現実世界での乙女の未来、
現在の民族対立と難民の世紀の報道写真のようでもある。
ミュシャの生きた時代には写真技術の発達によって
既に現実が即座に写し取られるということが始まっていた。