名前の無い水辺 ~びわこ文化公園 紅葉~

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晩秋のびわこ文化公園。

 

 

夕照の庭の周辺も赤や黄色に色付き、水鏡も華やかになります。

 

 

池を中心に何重にも紅葉が広がっています。

 

・・でもこの池は<夕照の庭にある池>というだけで、

池そのものの名前は無いようで、それがちょっとさみしい・・

 

 

鳥たちがとてもくつろいでいるように感じられる季節です。

 

 

 

Bloody Leaves 鮮血の古刹 ~金剛輪寺 紅葉~

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湖東三山のひとつ金剛輪寺。

 

 

紅葉が見事なことで有名な天台宗の古刹です。

 

 

開山は天平13年(741年)で、行基によるものとされています。

その行基が彫っていたご本尊の観音様が、

彫っている時に血を流した!!!

ということで<生身の観音>という秘仏になっています。

 

 

観音様に怪我をさせてはいけません。

ということはさておき

それが由来で本堂周辺の紅葉は

観音様の「血染めの紅葉」

と呼ばれるようになったということです。

 

 

「血染めの紅葉」とは

たいへん有難いような、

でも表現が直接的過ぎて

ちょっとおどろおどろしいようなネーミング。

エログロナンセンスが輝いていた昭和の感覚かな・・・

と思わないでもありません。

 

 

<血塗られた古刹 連続殺人事件>とか

<恐怖! 血を吸う紅葉>とか

<鮮血地獄 復讐の美女>とか

<秘拳炸裂!鮮血の金剛輪寺>とか

まあ、そんなB級映画のイメージです。

 

 

さらに、

金剛輪寺は千体地蔵と呼ばれる

たくさんのお地蔵様でも有名です。

 

 

風が吹くと風車が一斉に回りだして、

見方によってはこちらも

B級ホラー感を高めてくれるロケーションです。

 

 

どっさりの秋 ~石山寺 紅葉~

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花の寺である石山寺は湖畔の紅葉名所のひとつでもあります。

 

 

国宝の本堂や多宝塔を囲む紅葉

 

 

正面入り口の東大門からはじまる見事な色彩

 

 

参道や途中の休憩所にもたくさんの紅葉。

どっさりの秋という感じです。

 

 

どっさりをひっそりと敷き詰めたような庭もあります。

 

 

ここでしか見られないものとしては

「石山」の名前の由来となった天然記念物「硅灰石」と紅葉。

 

 

山茶花のかわいいワンポイントもあります。

 

 

夜にはサングラスが必要かと思われるほどの

派手なライトアップも行われています。

 

 

 

 

 

フランチェスコの秋 ~びわ湖ホール 紅葉~

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湖東三山や比叡山周辺などびわ湖周辺は

紅葉の名所が数多くあります。

湖北や湖西は渡り鳥の観察の名所でもあります。

 

 

びわ湖ホールは紅葉や渡り鳥の名所には数えられませんが、

それでも鳥たちは水辺に集い、秋は美しい。

 

 

そのびわ湖ホール11月の公演の目玉は、

メシアン作曲 オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』全3幕。

 

 

初演が1983年という現代オペラを代表する作品です。

演奏時間だけも4時間を超える大作で、

全曲を通しての公演は日本初という挑戦的な試みです。

メシアンは難解と言われる現代音楽の大家で、

この曲は、日本人には馴染みの薄い

キリスト教の聖人のストーリーを

フランス語で歌うというものですから

とても敷居は高いです。

ですがそういう県立芸術劇場びわ湖ホールの

その事業の頂点にある本格的な取り組みは

華やかなびわ湖の晩秋の風景と同じように

県民が誇りとしていいものでしょう。

 

 

 

虹のサーファー ~湖岸緑地 南三ツ谷公園 秋~

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夏の間はバーベキューで賑わっていた彦根の南三ツ谷公園。

 

 

北風が強く、波が荒れてくるとウィンドサーファー達が

目立つようになってきます。

 

 

この日は雨上がりの少し肌寒い風の強い日で

びわ湖には大きな虹が架かっていました。

 

 

 

冷たい風が強くなっていくほど、

そこに向かう元気な風の子たちです。

(。。。おじさんも多いですが。)

 

 

 

諭吉の末路 ~日本銀行本店 4~

 

 

現金大好きな日本人の間で

大量に流通している現在の日本の紙幣ですが、
市場にある期間は千円札ならたった1~2年、
1万円札でも3~4年だそうです。
丈夫に作られていても、
それくらいすると折れたり曲がったりして
機械を通らなくなるそうです。

 

 

そして古いお札の大半は、
細断されて焼却処分されてしまいますが、
一部はこのような日銀土産になります。
細かく切り刻まれて軸に詰め込まれた
福沢諭吉や樋口一葉や野口英世の哀れな断片。
残念ながら、あまりいい趣味のボールペンには見えません。。。

 

 

高度な偽造防止技術駆使した世界に冠たる品質の
昨日までは誰からも大事に大事にされて
厳重に金庫に納められたり、
人々の懐を幸せに温めたり、
激しい憎しみ合いの元にもなっていたものが、
使われなくなった途端、何とも惨めで醜く情けない存在になります。

かつての栄光があるからこそ余計に惨めなのです。

 

昨日まで代表取締役会長と呼ばれて
誰も逆らえなかった人が、役職を退いた途端、
うるさいだけのクソじじいに落ちぶれるようなものです。

このボールペン存在は、
もしかしたら貨幣博物館で学ぶべき
最も貴重な人生の教訓なのかもしれません。

 

そして、貨幣が価値を失うという事象は

ハイパーインフレーションの世界を想起させます。

貨幣が信用を失う社会は

人が社会を信用できなくなる地獄です。

だからそんな世界を連想させる切り刻まれた紙幣は、

この上なく惨めで醜く情けなく感じられるのです。

 

 

 

紙幣と金塊 ~日本銀行本店 3~

 

 

日本銀行本店の本館の向かいには分館があり、

そこには貴重な貨幣のコレクションを展示する

貨幣博物館があります。

 

 

入場無料なのですが、タダでは入れてもらえません。

高額な金貨などが展示されているということで、

盗難対策のためにX線と金属探知機による所持品検査が必要です。

 

 

検査は少々面倒ですが、見る価値は十分あります。

日本における貨幣の歴史を本物の展示品を見ながら知ることができます。

 

 

現存数が数点しかないといわれる天正菱大判。

取引されるとしたら価格は1億円を超えるらしい。

 

 

徳川埋蔵金伝説などでも有名な分銅金(法馬金)

伝説になっているのはこれの大型のもので1個で162kgもあったといいます。

とはいうものの、重さだけの価値だと時価でたったの8億円程度です。

殿様のプライベートジェットを買うくらいしかできない金額。

20個あっても160億円。一般人には目もくらむような額ですが、

幕府の資金としてはあまりに貧弱です。

それだけモノの価値が変化しているということでしょう。

現物の最上位に位置する大きな金塊でさえ、

採掘の限界を持たない紙幣や

瞬時に増殖できる電子のマネーに支えられた

バブリーな高度金融社会では

相対的に価値を落とします。

 

 

それからこちらは江戸時代の藩札。透かしの技術が使われています。

他にも隠し文字や特殊文字など現在に通じる偽造防止技術があったということです。

 

 

そしてこれは日銀が最初に作ったお札。

大黒札と呼ばれていたそうです。

富の象徴としての大黒が当時も広く認識されていたということでしょう。

 

 

明治18年に作られたこの最初の日銀銀行券は、

現在でも有効だということです。

もちろん古銭としては何万倍もの価値になりますが・・・

 

貨幣の歴史には様々な紆余曲折がありました。

初期の貨幣は中国からの輸入でしたし、

中世には脆弱だった貨幣体系が崩壊して

米が貨幣として台頭し

金銀と並行して進みます。

それに加えて江戸時代には

地域通貨である藩札も流通していますから、

貨幣がいくつものレベルで存在していたということです。

 

 

そして当たり前のことですが、近代以前の貨幣は<手作り>でした。

形式は統一されていたとしても、よく見れば

小判などには作った職人のクセや個性も現れているのでしょう。

 

 

 

 

偽の宮殿 ~日本銀行本店 2~

 

 

日本銀行本店の建物には、有名な本館と実務を行う新館の他に
旧館を増築した2号館3号館(昭和13年)と、
本館の向かいの分館(昭和59年)があります。

 

 

旧館と新館には、大きな時代の隔たりを感じますが、

増築部分の2号館、3号館は本館との連続性が意識されています。

 

 

本館の方があまりに有名なため、それほど注目されませんが
東側の増築部分も昭和初期の傑作建築の一つです。

 

 

この増築部分に限らず、戦前の昭和には建築技術が発展し

強固で大規模な鉄骨鉄筋コンクリートの建物が次々と建てられています。

野村證券本社(昭和5年)、明治生命館(昭和6年)、

国会議事堂(昭和11年)、第一生命館(昭和13年)などです。

 

 

日銀の隣に並ぶ三井本館も昭和4年(1929年)竣工。

ただ鉄筋コンクリートで建てられた古典やバロックやルネッサンスは、

本場の人たちから言わせるとニセモノ、

大阪風に言えば<パチもん>ということになるのかもしれません。

 

 

そんな問題意識や国際政治状況、モダニズムそのもの進展から、

昭和8年に建てられた東京中央郵便局(逓信省営繕課)は、

装飾を排した極めてストイックなデザインになっています。

 

 

そして逆に仰々しいほどに<和風>を取り入れた帝冠様式も現れます。

旧琵琶湖ホテル 昭和9年)

 

こういう建物を並べて見るだけでも

昭和の初めが、変化、激動、せめぎ合い、混乱・・・

そんな言葉が次々と思い浮かぶ時代だったことがわかります。

 

 

千両箱の上で ~日本銀行本店 1~

 

 

日本橋にある日銀の本店。

有名な旧館の本館は明治29年竣工、築121年の重要文化財ですが、

実際の運営が行われているのは後ろの新館です。

 

 

旧館の本館は、上から見ると「円」の文字に見えると言われており、

現在(2017年11月)は免振工事中です。

スカイツリーの2倍の7万5000トンもある建物の

土台の下に新たな土台を作って

そこに免振ゴムを設置するという面倒そうな大工事で、

完成まで3年近くかかるそうです。

 

 

本格的洋風建築として明治の錦絵となり、

すでに文化財でしかないこの建物ですが、

日本の金融政策の象徴として

今でも現役でテレビや雑誌やネットに

日々取り上げられ続けています。

 

 

それどころか、現在日銀のあるこの場所は

江戸時代には金座のあったところですから

金融の象徴的な場所としては400年続いているとも言えます。

 

 

江戸時代からの連続性を示すのが建物に施されたこの紋章で、

ライオンの足の下にあるのは6個の「千両箱」です。

 

 

奪われたアカンサス ~明治生命館~

 

 

昭和9年竣工の明治生命館。明治生命の本社だった建物で、

国の重要文化財です。

 

 

地上8階、地下2階。壁面に5階分のコリント式列柱がずらりと並ぶ

壮麗な傑作建築です。

施されたアカンサスなどの文様は繊細で見入ってしまうほどです。

 

 

建てられた当時もそうだったでしょうけれど、

今見てもここは日本ではないようにさえ見えます。

でも目の前にあるのは確かに皇居のお堀で、

後ろのあるのは増築(!)された明治安田生命の超高層ビル。

日本の近世と近代と現代が連続して共存しています。

 

 

設計は日本近代建築における「様式の天才」岡田信一郎。

大阪中之島の中央公会堂旧琵琶湖ホテルの設計者でもあります。

 

 

中に入っても、中央の広い吹き抜けは圧巻。

吹き抜けを囲む二階の回廊や各部屋の装飾も見応えがあります。

(この建物は土日を中心に無料で公開されいます)

 

 

この建物は再生・保存の状態が極めて良好で、

建築資料も整えられています。

何と言っても建設中の映像まで残されていて

それも公開されているのが素晴らしい!

昭和初期のビル建築の様子、蒸気式の重機で鉄骨が建てられたり、

基礎が打ち込まれたり、床にコンクリートが流し込まれたりする映像が

しっかり見られます。

 

 

戦後、この明治生命館はGHQに接収され、

空軍司令部として使われていました。

連合軍は東京を焼野原にしても、占領後の軍施設とするために

このあたりの建物は残したと言われています。

 

 

こちらは同じ通りにある第一生命館(昭和13年竣工)。

この建物も戦後接収され総司令部として使われました。

明治生命館と比べると素っ気ないようにも見えますが、

軍人であった最高司令官マッカーサーは

余計な装飾のないこちらのデザインを好んだのかもしれません。

 

 

GHQに接収された建物としてはこちらの方が有名ですが、

現在は外壁とマッカーサー記念室以外の部屋は

保存されておらず、公開もされていません。

 

建てられた当時もそうだったでしょうけれど、

今見てもここは日本じゃないように見えます。