『予測マシンの世紀』アジェイ・アグラワル、ジョシュア・ガンズ、アヴィ・ゴールドファーブ 著 小坂 恵理 訳 2019年刊 早川書房

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これは経済学の視点か見たAIという話で、質・量ともに充実した極めてクールな内容です。

なぜ、現在がAIの時代になりつつあるのか?

その答えは経済学的には至ってシンプル。

<計算がものすごく安くなったから>です。

これが重要で、すべてはこれに尽きる。

これは電気を例にとれば明らかで、蛍光灯をひとつ点けるのに10分間で100万円必要なら世界の夜は今も暗闇のままでしょうけれど、電気が安くなったから電気代を気にせず灯りを点けるし、冷蔵庫や洗濯機やおもちゃから列車まで電機は様々なものに使われるようになった。

膨大な計算能力を必要とするAIも、計算単価がとてつもなく安くなったからどこにでも使われるようになってきたということです。

その<安さ>こそが世界を根底から変えてしまうのです。

移動や通信やエネルギーのコストが世界を変えてきたように。

 

『グーグルが消える日』 ジョージ・ギルダー・著 武田玲子・訳 2019年刊 SBクリエイティブ

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やや専門的な内容で言及範囲も広く飛び回るので読みにくい本ですが、要は中央集権的で独占的なデータの取り扱いをするGAFA的なものから、ブロックチェーンのような分散システムに移行していく必然を説いているということです。

データを一カ所に集めるクラウド型の技術的、経済的限界(あるいは飽和)から分散型のスカイコンピューティングへの移行。

テクノロジーはそちらを追求する方に、既にジャンプしてしまっているということであり、クラウド型では広告をAI化することくらいしかもうやることがないということである。

極めて興味深い指摘である。

この本ではAI万能説も痛烈に批判されていて、その点も示唆に富んでいる。

『アフターデジタル』 藤井 保文・尾原 和啓著 2019年刊 日経BP社

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日常空間とデジタル空間の境がなくなりつつある世界の姿を、中国の現状を参照しながらビジネスの視点から考えた本。

現在、購買履歴や位置情報や監視カメラによって人々の行動データは完全にデジタル基盤の上に載るようになってきています。これをO2O(オンライン/オフライン)の次のOMO(オン・オフ融合)と呼びます。

ジョブ理論やサブスクリプションモデルの流行もこの流れの上で説明できます。

こうなると人々の行動のリアルタイムに、かなりおせっかいにデジタルが関わってくることになります。

良く言えば生活行動の「サポート」ということになるだろうしでしょうし、悪く捉えれば「監視・誘導・押し付け」となるでしょう。技術そのものは中立なので、大切なのは人によるその技術の使い方。使いこなせればスマートな看守として振舞え、理解も利用もできなければデジタル監獄の囚人になるということかもしれません。

 

『超孤独死社会』菅野久美子 著 2019年刊 毎日新聞出版

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孤独死と特殊清掃の現場を追ったルポルターシュ。

 

社会とのつながりを失い、セルフネグレストからゴミ屋敷化して、その中で生活し死を迎えるという姿は、世界で最も劣悪な生活環境の一つであろう。

その現場に遭遇したら、抗争中のマフィアたちでもたじろぐだろうし、スモーキーマウンテンの子供たちでもあきれるだろうし、テロリストたちも神に祈るだろう。

その現場は想像を絶し比類がない。

 

そこに見られるのは、社会から切り離された人間がどのような姿をしているのか、である。

マフィアにもテロリストにもゴミ捨て場の子供たちにも<社会>はある。しかし孤独死の現場にはそれがない。

そこにあるのは社会的には何者でもない者の<閉じこめられたプライバシー>である。

誰もがこの上なく尊重する個のプライバシーは、実はあまりに醜悪なために誰もが隠しあっているものなのかもしれない。

その姿は社会問題を突き抜けて、「人間とは何か」「社会とは何か」という哲学的課題に突き当たる。

そこでは、サルトルもフロイトもアーレントも絶句するしかないだろう。

 

そしてその現場は、アパートの壁1枚を隔てただけの隣室にある。

床の下にはごみの中で窒息死した亡者の奈落がある。

天井が抜けて蛆とゴミと死体が降って来るかもしれない。

 

さらに驚くべきことに、昼間は普通に職場で生活し、夜はゴミ屋敷で生活している人もいる!人間は自らを完全に二重化できるのである。

『サブスクリプション』ティエン・ツォ、 ゲイブ・ワイザート 著  桑野 順一郎, 御立 英史 訳 2018年刊 ダイヤモンド社

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事業のサブスクリプション化を考えるときにとても参考になるのがこの本。

現在のアメリカのサブスクビジネスのど真ん中にいるズオラのCEOの書いたもの。アメリカのビジネス書らしくやや暑苦しくて冗長ではあるが、サブスクの核心に近づける内容だと思う。

「お下がり」という発明

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神仏に供えられたものが

「お下がり」として周囲に配られるという行為は、

富を再分配するある種の経済活動を表しているようだ。

寄進する者は自らの所有権を神に向けて放棄する。

寄進された「モノ」は世俗の権利関係から切り離され、

一旦この世のものではなくなる。

その時、財は浄化され「浄財」となる。

そして「浄財」は誰のものでもない新たな財

「お下がり」として世俗に還流する。

世俗の富の偏在が神の前の再分配として調整されるのである。

冨を再分配するために

社会の中心に超越者を据えるというのは

人類史上最大級の社会的発明であっただろう。


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空白の意味

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お祝いとその返礼の間には一定の空白期間が必要である。

通常は1ヶ月くらいの期間である。

 

それは何故か?

 

その単純な疑問には単純な答がある。

 

お祝いを渡して、その場で返礼を受取ると

それは単なる物々交換になってしまうからである。

 

誕生のゆらぎ ~いのちを判断するもの~

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出産という行為が、産屋で産婆によって行われていた時代。

産み落とされたものを、<いのち>としてトリアゲルかどうかは

産婆の判断に委ねられていた。

 

明治以降、富国強兵の世相では

産まないという判断の余地は狭くなっていった。

大正期にはその反動と自由の風潮から

平塚らいてうが避妊の権利を訴えるようになった。

多くのいのちが失われた戦争の時代を経て

一気に260万人が生まれ続けるベビーブームになり

優生保護法が施行されると年間100万人が中絶届けを出すようになり

さらに100万人が届けを出さずに中絶した。

誕生は大きく揺らいだ。

 

胎児をデキモノのように「取る」時代には

その反動として水子供養を流行らせた。

そしてどんな赤ん坊も絶対死なせないというのが

医学のミッションになった。

 

何を<いのち>として認識するかは

その時代時代の判断によるところも大きい。

現在は「受精卵は生命の萌芽」(文部科学省)である。

<いのち>を判断するのは医学と政治でもあるのだ。

 

 

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参考文献:『近代化のなかの誕生と死』

国立歴史民俗博物館+山田慎也 2013年

 

 

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貢献のはじまるとき

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個人・法人を問わず「社会貢献」の重要性が語られることは多い。

「社会貢献」が盛んになるのは社会の成熟の証であるとも言われる。

それはなぜか?

個人の衣食住が整って文化や社会全体に

目が向けられるようになるからであろうか。

豊かになりお金持ちになり過ぎた人が

自らの富裕さを誇示するために寄付がはじまるのだろうか。

確かに一面ではそういうこともあるだろう。

でもそれは現象の一部分であって本質ではない。

 

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では、その本質は何か?

それは自らの成り立ちへの気付きであろう。

個人であれ、法人であれ

今ここに存在していられるのは

社会というものの存在を前提としてのことである。

社会があることによって個人も法人も存在できる。

自らの存在がその社会によって

与えられ支えられているものであると気付いた時、

与えられたものへのお返しとして<貢献>が始まるのである。

見返りを求めず一方的に貢ぎ、献げるのは、

すでに多くを受け取ってしまっているからである。

 

存在は与えられたギフトであり

貢献は行動するギフトである。

 

それは自然に対しても同じである。

自らの命が自然によって与えられたものだと気付いた時

内的動機に導かれた環境保全がはじまるのである。

そしてそういう気付きを得て

「ありがとう」と言えるようになることを

<成熟>というのであり、

その成熟は年齢とも収入とも無関係である。

「結婚の儀」から「恋愛ドラマ」へ

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天皇家の結婚式である「結婚の儀」は、

日本における一般的な結婚式のお手本とされてきましたが、

それが始まったのは明治33年(1900年)5月10日。

大正天皇の婚礼の日からです。

宮中での婚儀から馬車でのパレード、

新郎新婦が手に手をとっての饗宴、そして新婚旅行…

という当時としては時代の最先端を切り開くような

極めてモダンな結婚式の姿でした。

中央集権の統一近代国家たらんとする当時の日本において、

その統一の中心であったのは天皇ですから婚礼においても

天皇家の式次第がスタンダードとなったわけです。

しかし、それは国家が法律で結婚式の方法を決めたということではありません。

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