『昭和維新試論』 橋川文三 著 2013年刊 講談社学術文庫

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昭和維新試論
橋川文三 著
2013年刊 講談社学術文庫

 

明治の終わりから昭和の初めにかけて、
戦争に向かって流れていく時代の意識を
当時を生きた個別の人物に寄り添うように分析した評論である。
雑誌連載をもとにして、最後まで仕上げることなく
著者が亡くなっていることもあり
全体としてのまとまりにはやや欠ける気はするが、
取り上げられている個々の人物への思い入れは強く感じられる。
特に渥美勝などに対して感じられる共感は
客観的な人物評を超えて強引な気がするほどで、
著者はそこに自己の深い心理を勝手に重ねているように思う。
しかし著者が感じているそれぞれの人物への共感は、
この評論にリアリティと迫力を与えている。
歴史的事実としてのリアリティではなく、
そこにそんな人物が確かに存在したのだというリアリティである。
そしてそんな人々がいたことをリアルに感じることで、
その時代をもリアルに感じることができるのであり、
その時代が現在まで続いていることを理解できるのである。
それは戦前も戦中も戦後も今もずっと
果てしなく続いている
苦悶と疑問と愚問の近代という世界である。

 

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『日本近代史』 坂野潤治 著 2012年刊 ちくま新書

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『日本近代史』
坂野潤治 著
2012年刊 ちくま新書

 

明治維新から80年間の近代史を記した著者は、
日中戦争の始まるところで筆を置きこう述べる。
「異議を唱える者が絶えはてた
「崩壊の時代」を描く能力は、筆者にはない」
逆に言えばそこまでは歴史として描ける対立や対話が
存在したということである。
そして日本が国力のすべてを動員して戦い続けていたにもかかわらず、
「崩壊の時代」には構造として描ける歴史がないのである。
日本は「歴史」を形作る力さえ燃やし尽くしていったかのようである。
そこは崩壊をじっと見つめ続けるだけの<歴史の果て>であったのだろう。
その時代を原体験として知る筆者は、
その時代について描かないことによって、
そこにあった全面的で圧倒的な空虚を
それまでの80年間と対比して示しているかのようである。

 

 

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『戦争の日本近現代史』 加藤陽子 著 2002年刊 講談社現代新書

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『戦争の日本近現代史』
加藤陽子 著
2002年刊 講談社現代新書

 

 

<国民感情>というような捉えどころのないものが
革命や戦争といった国家の危機的局面で
そのストレスにたいしてどのように変化したか。
そして捉えどころのないものが、
抑えようのないものに変化することで
押し流された国家はどのように漂流し座礁したか。

本来、捉えどころのないものなのだから、
その歴史を突き詰めて断定することは無理な話なのだが、
それでもそこをながめ続け研究し参照することは、
歴史以上に捉えどころのない現代と向き合うために
たいへん重要なことである。

現に今アメリカやイギリスで起きていることは、
第二次世界大戦の前に起きていた動きによく似ている。
移民を排斥し、国際的な枠組みからの脱退するような動きである。
もちろんそれぞれの動きにはそれなりの正当な理由があり、
国民の正当な支持も得て、
それでもそこからこじれてこじれ続けて
二転三転四転して転がり続けて
最終的に開戦という選択肢しか残らなくなっていくのである。
アメリカとメキシコの国境に壁が築かれて、移民が追い返されても、
メキシコはアメリカに奇襲攻撃を仕掛けたりはしないだろう。
でも新たなテロの火種にはなるだろう。

 

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『日本の近代とは何であったか』 三谷太一郎 著 2017年刊 岩波新書

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『日本の近代とは何であったか』
三谷太一郎 著
2017年刊 岩波新書

 

「私なりに日本近代についての総論を目指した」
これはこの本の帯に記された一言である。
宣伝文句としては控えめで素っ気ないものである。
そもそも宣伝文句になってさえいないようなものだが、
この素っ気なさこそが、この著作に込められたものの
重要性を表現している。
80歳の政治歴史学者の実直で精力的な研究人生の集大成。
それに中途半端な装飾文句を付け加えるのは逆に失礼なのである。
重厚にして鮮やか。そして無駄がない。名著である。

日本の近代化/憲法/天皇/議会/市民社会/国際社会
これらをどう理解し、論としてどう組み立てるか。
歴史の見方は学者によって違うし、
三谷史観が絶対正しいというわけでもないだろうけれど、
説得力は抜群であり、多くの人たちに影響を与え続けるだろう。

 

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『隷属なき道』 ルトガー・ブレグマン 著 野中香方子 訳 2017年刊 文藝春秋者

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隷属なき道
ルトガー・ブレグマン 著 野中香方子 訳
2017年刊 文藝春秋者

 

 

ベーシックインカムそのものは、政策として
極めて重要な選択肢のひとつだと思う。
決定的に革命的な一手であるだけに
指すことが極めて困難な手でもある。
その政策によって社会がどう変化するかを
考えるだけの想像力を人々はもっていない。
想像もできないことを実行はできない。
もちろんこの本に書かれている根拠だけではまったく不足である。
冷戦時代のニクソンの考えが現在に適用できるとは思えないし、
スピーナムランド制度の報告書が正しいかどうかも
ベーシックインカムの実施に直接関係しない。
フォードやケロッグが仕事のない従業員に賃金を保証したわけでもない。
周辺的な、状況証拠のようなものをいくら繰り返しても
説得力が増すわけではない。
それでも、想像することすらできないことを、
議論や社会実験を通して次第に思い描けるようになっていく
きっかけの一つをつくるという意味で、
少々冗長なこの本も有用である。

 

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『カント入門』石川文康 著 1995年刊 筑摩書房

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カント入門
石川文康 著
1995年刊 筑摩書房

 

のどにひっかかりそうな小骨をきれいに取り除いて、
おいしいところを無駄なく丁寧に盛り付けた感じのカント入門書。
何しろ理性を批判しながら、
最終的には理性による信仰へとたどり着くという
アクロバティックな展開である。
それをなじみのない哲学用語を用いながら、
わかりやすくかつ噛み応えのあるまとめとしている。
コンパクトではあるが、コンパクトにまとめることの苦労が
伝わってくる労作である。

 

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『国家神道と日本人』 島薗進 著 2010年刊 岩波新書

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国家神道と日本人
島薗進 著
2010年刊 岩波新書

 

近代日本の政府が国民を統治するためのシステムとして磨き上げた天皇祭祀。
神社組織を横糸とし、学校教育を縦糸として
地域と個人を徹底的に組織化して
人々を一枚の強靭な<国民>として編み上げた。
それは素晴らしく緻密で、極めて成功した統治手法であったが、
逆にそれがあまりに強靭過ぎて政府は自縄自縛に陥ってしまった。
それが先の大戦までの経緯である。
戦後、その手法は放棄されたが、
編まれた<国民>が解かれることはなかった。
統治としての宗教が無くなって日本人は「無宗教」になったが、
<国民>の宗教的な起源がなくなったわけではない。
目の前や頭の上から見えなくなっただけで、
<国民>の足下を支えているのは今でも古代から続く祭祀である。
戦後70年以上が経っても、足下の霊脈が枯れる気配はない。
・・・天皇制を廃止するという議論がなされることはない。
・・・それは無条件に信頼されているという意味で<宗教>である。
逆に時が経てば経つほど、変えられない歴史として
国民のアイデンティティを支えるものとしてその力は増していく。
これは「決して緩まないネジ」と同じ 日本人によるすごい発明品のひとつである。

 

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『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫 萱野稔人 著 2010年刊 集英社 

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超マクロ展望 世界経済の真実
水野和夫 萱野稔人 著
2010年刊 集英社

 

少々安易なタイトルにも思える『超マクロ展望 世界経済の真実』。
<超マクロ>ということで、
話は封建制の行き詰まりから現在の量的緩和にまで及びます。
これはエコノミスト出身の経済学者である
水野氏の経済論をなぞるものでしょう。
それを政治や権力システムの面から萱野氏が補う形です。
饒舌な萱野氏ですが、自分より一回り以上年上の大学の先輩の前では
遠慮気味にみえます。
400年前の世界経済から10年後の日本経済の答えを導き出すのには
無理がありますが、水野氏の話は興味深ものです。
逆に100年単位の節目なら、10年前のことは参考になりませんから、
超長期から短期までバランスよく見ていくことも必要でしょう。
経済の話は、今日明日の稼ぎに直結するので、
どうしても近視眼的になりがちです。
でも、そこから離れないと見えないことも多くて、
見えないと猛スピードで突進してクラッシュしてしまいます。
クラッシュしても何度でも立ち直るのほど逞しいのが
資本主義なのかもしれませんが、
それを制御するシステムが資本主義の中に組み込まれていないのが
恐ろしい事でもあります。
資本主義は不死鳥であっても、
その事故に巻き込まれる人間は不死身ではありません。

 

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『没落する文明』萱野稔人 神里達博 著 2012年刊 集英社新書

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没落する文明

 

没落する文明
萱野稔人 神里達博 著
2012年刊 集英社新書

哲学の萱野稔人と科学史の神里達博による対談。
組合せとしては興味深いし、
それぞれがおもしろい意見を述べられているけれど、
対談のコーディネートとしてはあまりこなれていない気がします。
(書籍としての編集時点での問題かもしれません。)
萱野稔人がホストの立場に徹しているニコ生での対談の方が
<没落する文明>としてはしっくりきます。
(といっても、ニコ生的なちょっと刺激的な放談という感じですが…)

対談の後半で、社会の近代化の特徴として、
人が「身分」から「役職」へと抽象化されることが述べられています。
話の本筋からは、少し離れたところですが、
これはたいへん重要な指摘です。
現代に生きる我々にとっては「身分」などというものは、
とっくに滅びてしまった不自由で非効率極まりない制度に過ぎません。
しかしそれが数百年、数千年単位で社会の基本になっていたのにも、
それなりの理由があったのでしょう。
近代的な「役職」が抽象的でヴァーチャルなものだとするなら、
それ以前の「身分」は具体的でリアルなものだったはずです。
「役職」は制服を着ている間だけの、その場限りのものですが、
「身分」は生まれる前の先祖代々から死んだ後の子孫代々まで
ずっと続くものです。
その二つは質も重みもまったく違います。
ヴァーチャルという意味では「役職」は貨幣やスマホの仲間であり、
リアルという意味では「身分」は宗教やナショナリズムと並ぶものです。
リアルとヴァーチャルの違いは、人がそのことに命を懸けるかどうかです。
もしかしたら、無条件に信じられるリアルを失って、
ヴァーチャルと戯れることしかできなくなっていく状況こそが、
悪魔に魂を売り渡してしまった文明の没落を示しているのかもしれません。
(そんなことはまったく述べられていませんが…)

 

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『永遠平和のために 啓蒙とは何か 他』 カント 著 中山元 訳 2006年刊 光文社 

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永遠平和のために 啓蒙とは何か 他
カント 著 中山元 訳
2006年刊 光文社

 

カントの『永遠平和のために』が出版されてから220年以上が経ち、
世界は多分、当時のヨーロッパよりずっと平和になっている。
厳しい緊張が絶えず発生してはいるものの、
今のところ国家間での戦争らしい戦争はほとんど起きなくなっている。
しかし、現代は220年前には全く予想できなかったほど
複雑怪奇な姿になっていてる。
皮肉にも、カントが戦争を抑止する力になると語った「商業の精神」が原因で、
カントが批判した常備軍とは全く異なる人たちによる殺し合いが起きている。
世界的な貿易の広がりは、世界的な豊かさと世界的な貧しさと、
世界的な武器の流通と、世界的な不安定を生んでいる。
人間の利己心はカントが考えていたよりはるかに巧妙に<進歩>し続けてきたのだ。
にもかかわらずカントは正しかった。
「われわれは〔人間は善き存在になりえないという〕
この絶望的な結論に到達せざるをえない」
と述べていたのだから。
そして、にもかかわらずカントの以下の哲学的結論は変わらないだろう
「法にたいする尊敬の義務を
決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、
人間愛の営みにおいて
慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるのである。」

 

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