『日本の近代とは何であったか』 三谷太一郎 著 2017年刊 岩波新書

プリント

 

argobook101_2

 

『日本の近代とは何であったか』
三谷太一郎 著
2017年刊 岩波新書

 

「私なりに日本近代についての総論を目指した」
これはこの本の帯に記された一言である。
宣伝文句としては控えめで素っ気ないものである。
そもそも宣伝文句になってさえいないようなものだが、
この素っ気なさこそが、この著作に込められたものの
重要性を表現している。
80歳の政治歴史学者の実直で精力的な研究人生の集大成。
それに中途半端な装飾文句を付け加えるのは逆に失礼なのである。
重厚にして鮮やか。そして無駄がない。名著である。

日本の近代化/憲法/天皇/議会/市民社会/国際社会
これらをどう理解し、論としてどう組み立てるか。
歴史の見方は学者によって違うし、
三谷史観が絶対正しいというわけでもないだろうけれど、
説得力は抜群であり、多くの人たちに影響を与え続けるだろう。

 

argobook101_4

 

 

以下、本文より・・・

序章 日本がモデルとしたヨーロッパ近代とは何であったか

・一部の知識人からは、米国は「攘夷」の成功事例とさえ見られていました。
・それは政治学における「自然学」的次元を開き、
「政治的自然」を強化し、発展させる力としての「自由」に基づく政治、
すなわち「議論による統治」(governmento by discussion)
の確立を目的とするものでした。
←バジョット『自然学と政治学』
・法化された固定的な慣習によって拘束されることなしには、
地域集団は真の民族となることはできません。
民族を存続させるものは、民族的同一性を保証するような
慣習規範の固定制であるのです。 ・「身分から契約への移行」
←ヘンリー・S・メイン

第1章 なぜ日本に政党政治が成立したのか

・複数政党制の成立と発展は、
世界的に見ても決して一般的な現象とはいえません。
・合議制および月番制によって権力の集中が抑制される仕組が
幕府の政治的特質としてあった
・「権力平均の一事は数百年来日本国人の脳中に徹し又遺伝に存し」
←福沢諭吉「国会の前途」
・将軍ですらも、相互監視の対象であることを免れませんでした。
将軍の寝所には将軍と寝所を共にする女性以外の第三の女性が入り、
そこでの将軍の会話を逐一聴取することが公然の慣習とされていました。
・日本では、18世紀末の寛政期以降、
幕府の官学昌平黌が幕臣のみならず、
諸藩の陪臣や庶民にも解放されるとともに、
先刻の藩に採用された昌平黌出身者を中心として
横断的な知識人層が形成されました。
・天皇を代行する覇者を排斥すること
←王政復古
・幕府的存在を排除するための最も有効なものとして考えられたのが、
議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。
権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす
天皇大権のメダルの裏側であったのです。
・「統帥権の独立」というのは「司法権の独立」と同じように、
あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。
・藩閥が担ってきた体制統合の役割は漸次政党に移行していきます。
その意味で正統は藩閥化し、また藩閥は政党化する。
いいかえれば、政党が幕府的存在化する。
これが日本における政党制(party system)の成立の意味でした。

第2章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか

・外資導入に不利な条件を強いる
関税自主権を欠いた不平等条約の下では、
外資に依存しない資本主義にならざるをえなかった
・先進産業技術と資本と労働力と平和
←国家が整えた資本主義の条件
・無産化した華士族に雇用の機会を与える(華士族授産)
・明治政府は地租改正法を通してはじめて直接に個々の農民を把握し、
それによって安定した地租収入を基礎とする
国家資本の源泉としての租税収入を確保することができた
・「学制」の歴史的意義は、教育の理念として身分制を否定し、
一方において国家主義を強調するとともに、
他方においては個人主義を謳い、
かつ両者の結合を図ろうとしたところにあります。
・一国の富強は一般人民個々の開明の度合いに係るという認識
←1872年 文部省伺
・府県によっては寺社の縁日や祭日の催しを禁止し、
その費用を小学校建設に充てたり
・「良妻賢母」ということばを初めて使った
→中村敬宇
→自ら独立した市民として次代の独立した市民を育てるという意味
・自立的資本主義を志向する明治日本の
経済的ナショナリズムと平和が不可分であることは、
国家の頂点に立つ明治天皇の確信でした。
←グラント将軍の忠告
・大久保によって先鞭がつけられた明治国家の自立的資本主義は、
消極的外債政策、保護主義的産業政策、
そして対外的妥協政策によって特徴づけられます。
→松方財政へ
・国際金融家としての井上が果たした役割は、
ラモントに協力して日本を1920年代に成立した
中国に対する英米仏日四国借款団に加入させ、
それを媒介として英米の国際金融資本との提携を強化したことです。
これによって1920年代における
日本の国際的資本主義への転換は決定的となりました。
←井上準之助
・このような政治的性格をもつ四国借款団を媒介として、
井上は米英資本(特に米国資本)を国内に導入することに努めます。
それは1920年代から満州事変前夜にかけて集中的に行われました。
←ラモント―井上ルート 不安定な中国より日本に投資
・英米の国際金融資本にとって、井上の存在は
日本に対する債権の最大の担保の意味をもっていたわけです。
・金解禁が実施されたのは、1930年1月11日でしたが、
それから10日後の1月21日から日本も参加して
ロンドンで開会されたのが補助艦制限を目的とする海軍軍縮会議でした。
→金本位制と緊縮財政(軍縮)
・国際金融家の時代は終わり、国家資本の時代が始まる
←1933年 フランクリン・ローズベルト 金輸出の禁止
←対外金融に対する国家の直接主導権の強化 保護主義

第3章 日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか

・植民地なき植民地帝国を構築する方法で、
植民地の獲得や経営のためのコストを要しない
「非公式帝国」の拡大を目的とするものでした。
→イギリス「自由貿易帝国主義」
→領事裁判権を認めさせ、関税自主権の剥奪する
・枢密院は1888(明治21)年5月、帝国議会開設に先立って、
皇室典範案および憲法案の審議にあたる目的で創設されました。
・大正後半期以降、主として1920年代の「同化」政策に伴って、
日本の政府当局者は植民地という名称は
公式の名称として使用することはもちろん、
それを連想させるようなことは避けたいと考えたのです。
そこに「同化」政策の特徴が顕著に表れています。
・帝国主義の遺産を脱帝国主義の時代にふさわしい形で
いかにして守るかという問題意識が、「同化」政策の根底にはあった
・日本において国際的地域主義概念が登場するのは、
満州事変以降の1930年代前半のことです。
←「世界の再認識と地方的(リージョナル)国際連盟」
蝋山政道 1933年
・1931年をもって日本と世界にとっての
第一次大戦の「戦後」は終わるのです。
そして1931年から日本の軍部によって引き起こされた
国際環境の変動に伴って、
従来日本においては傍流ないし底流に止まっていた「地域主義」が、
外国の事例をモデルとしながら、俄然時代の本流に転ずることになります。
・中国民族主義に対抗して日満間の特殊な関係を正当化する、
「民族主義」ではなく、「民族主義」を超える
「地域主義」の原理を対置する必要があった
・「地域主義」論者によれば、中国民族が生きていくためには、
民族を超えた日本を中心とする地域的連帯に目覚めることが必要
←日本の例外性を強調
・モデルとして重視されたのは、一つは当時ナチス・ドイツの公法学者たち、
とくにカール・シュミットによって提唱された欧州広域国際法の理論、
またもう一つはモンロー・ドクトリンにあらわれた
米国を中心とするアメリカ大陸の国際法秩序でした。
←「地域主義」的国際法の原理→「大東亜国際法」
・米国が冷戦の展開に対応して、
独自の「地域主義」的国際秩序を構想し、
その中に日本を位置づけた
・従来の日本を中心とするアジアの地域主義は、
少なくとも冷戦戦略としては意味を失っていきます
←ニクソン訪中、ベトナム戦争終結
→グローバリズムへ

第4章 日本の近代にとて天皇制とは何であったか

・日本の近代を貫く機能主義的思考様式
・日本の近代とは、明確な意図と計画をもって行われた
前例のない歴史形成の結果でした
・田口は個人主義者でしたが、自己実現を追求するというよりも、
自己を機能化し、役割化して生きることを選んだ
→田口卯吉 明治期の自由主義的資本主義の先導者
・日本近代に特有の学問に対する機能主義的で実用主義的な態度
←マルクス経済学の計画経済を戦時経済に応用
・ヨーロッパにおいてキリスト教が果たしている
「国家の基軸」としての機能を日本において果たしうるものは何か
←憲法起草者としての伊藤博文の最大の問題
・「我国にあって基軸とすべきは独り皇室あるのみ」
←伊藤博文
・「神」の不在が天皇の神格化をもたらした
・日本の立法者は、プロイセン国王憲法を
大日本国憲法に移植する際に、“unverletzlich”を
天皇に対して使う場合と臣民の権利に対して使う場合で、
訳語の上で意図的に区別していた
・“unverletzlich”は、天皇に身位を形容する場合には
「神聖ニシテ侵スヘカラズ」と訳され、
臣民の権利については単に
「侵サルルコトナシ」と訳されているのです。
・天皇の「神聖不可侵性」に触れることは、
議会における言論の自由の範囲に含まれず、
それをも内面から制約する要因となっていました。
・大日本帝国憲法の下で国務大臣の副署がない例外的な詔勅がありました。
憲法が施行された第1回帝国議会開会を1カ月後に控えて、
1890(明治23)年10月30日に発せられたいわゆる「教育勅語」がそれです。
←批判することが許されない詔勅
・天皇の「神聖不可侵性」は、天皇の非行動性を前提としていました。
それは、法解釈上は天皇は神聖である、故に行動しない、
故に政治的法律的責任を負わない、という以上の積極的意味をもたなかった
・第1条に規定する統治の主体としての天皇と、
第3条の天皇の「神聖不可侵性」とは、
法論理的には両立しなかったのです。
→憲法外で「神聖不可侵性」を体現するのが「教育勅語」
→「教育勅語」は「国家の基軸」としての天皇の必然
・勅語の宗教性と哲学性の徹底した希薄化であり、
いいかえれば宗教的哲学的中立性。
←井上毅
・道徳の本源は中村案における
「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、
皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、
しかし非地上的な存在という意味では超越的な、
いわば相対的超越者に移りました。
←「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」
・立憲君主としての天皇が
勅語によって教育の基本方針を示すということは、
いかなる形において許されるかを苦慮した井上は、
教育勅語を天皇の政治上の命令と区別し、
社会に対する天皇の著作の公表とみなした
・教育勅語は立憲君主制の原則との衝突を回避しながら、
政治的国家としての明治国家の背後に道徳共同体としての
明治国家を現出させるのです。
・「国体」概念は憲法ではなく、勅語によって
(あるいはそれを通して)培養されました。
・教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している
「市民宗教」(civil religion)の要約であった
・日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、
憲法は少数者の論理だった
・昭和戦前から戦中にかけての日本の政治は、
こうした両者の原理的あるいは機能的矛盾によって引き起こされた亀裂が、
国外の環境の変動と連動しながら、その不安定化を促進していったのです。

終章 近代の歩みから考える日本の将来

・バジョットによれば「議論による統治」は
「貿易」による自由なコミュニケーションの拡大と、
「植民地」による異質な文化とのコミュニケーションの拡大とによって
促進されると考えられた
・原発には、現在および将来の日本の資本主義の全機能が集中していた
・原発事故は、日本近代の最大の成果の一つであった
日本資本主義の基礎そのものへの疑問を突きつけたといっても
いいすぎではないと思います。
それは、すなわち日本近代そのものへの根源的批判を惹起しました。
・現実の天皇は「神」に代替することはできません。
そこで明治国家の設計者たちは、天皇を単なる立憲君主に止めず、
「皇祖皇宗」と一体化した道徳の立法者として擁立した
・冷戦後20年を超えた今日においても、
安定した国際政治秩序は依然として未完の問題です。
その原因は、世界的な傾向としての
ナショナリズムを超える理念が不在であること、
そして、「国益」に固執する短絡的な「リアリズム」が根強いことでしょう。

 

 

パンセバナー7

 

パンセバナー6

 

 

『日本の近代とは何であったか』 三谷太一郎 著 2017年刊 岩波新書” への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA