『戦争の日本近現代史』 加藤陽子 著 2002年刊 講談社現代新書

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『戦争の日本近現代史』
加藤陽子 著
2002年刊 講談社現代新書

 

 

<国民感情>というような捉えどころのないものが
革命や戦争といった国家の危機的局面で
そのストレスにたいしてどのように変化したか。
そして捉えどころのないものが、
抑えようのないものに変化することで
押し流された国家はどのように漂流し座礁したか。

本来、捉えどころのないものなのだから、
その歴史を突き詰めて断定することは無理な話なのだが、
それでもそこをながめ続け研究し参照することは、
歴史以上に捉えどころのない現代と向き合うために
たいへん重要なことである。

現に今アメリカやイギリスで起きていることは、
第二次世界大戦の前に起きていた動きによく似ている。
移民を排斥し、国際的な枠組みからの脱退するような動きである。
もちろんそれぞれの動きにはそれなりの正当な理由があり、
国民の正当な支持も得て、
それでもそこからこじれてこじれ続けて
二転三転四転して転がり続けて
最終的に開戦という選択肢しか残らなくなっていくのである。
アメリカとメキシコの国境に壁が築かれて、移民が追い返されても、
メキシコはアメリカに奇襲攻撃を仕掛けたりはしないだろう。
でも新たなテロの火種にはなるだろう。

 

 

以下、本文より・・・

第1講 「戦争」を学ぶ意味は何か

・歴史には「出来事=事件」だけでなく「問題=問い」があり、
そのような「問い」のかなりの部分は、
時代の推移とともに人々の認識や知の型が、
がらりと変わるのはなぜなのか、あるいは、
人々の複雑な行動を生み出すもととなった深部の力は何なのか、
この二つの問題を考える点に集中する、
とまとめられそうです。

・「近代植民地帝国の中で、これほどはっきりと戦略的な思考に導かれ、
また当局者の間に〔島国としての安全保障観に関する〕
これほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた例はない」
国として、第一次世界大戦期までの日本を特徴づけました
←マーク・ビーティー『植民地』

・為政者や国民が、「だから戦争にうったえなければならない」
「だから戦争をしていいのだ」という感覚をもつようになり、
政策文書や手紙や日記などに書きとめるようになるのは、
いかなる論理の筋道を手にしたときなのかという、その歴的経緯

・日清戦争によって、普通の人々が戦争を通じて初めて異国に接した結果、
「日本人意識」が生じたこと、
また戦争遂行のための義援金募集に応じることや、
祝捷会準備に主体的に参加していくことなどを通じて、
近代的な「国民」が誕生したことに注目


第2講 軍備拡張論はいかにして受け入れられたか

・みずから煽った攘夷熱の始末をどうつけるかが、
新政府の真っ先に対処すべき問題
・国際法というものに対しては、
あたかも道の教えに従うのと同じ敬虔な態度で従うべしと
国民に説明した
←吉野作造
・明治初年の人々が
あれほど急に近代的意識を身につけられた理由として、
窮地に立たされた政府が、
みずからの置かれている状況について国民に率直に披露したから
←吉野作造
・政府が国民を説得する際、
いわば新しい思想を古い革袋に入れて提示してみせたがゆえに、
迅速に新思想が国民に浸透していったというパラドックス
←吉野作造
・松陰は、列強との交易で失った損害を
朝鮮や満州で償うべきであると論じつつ、
国体の優秀性を皇統の永続性に見出し、
天皇親政がおこなわれていた古代における
三韓朝貢という思想のイメージに基づいて、
朝鮮服従を日本本来のあるべき姿として描き出しました。
・アジア主義の定義としては
「日本近代史上に隠顕する思想的傾向、
すなわち西洋列強の抑圧に抗して、
日本を盟主にアジアの結集をうったえたもの」
←平石直昭
・日本近代の特徴の一つであるといえる、
「内にデモクラシー、外に帝国主義」


第3講 日本にとって朝鮮半島はなぜ重要だったか

・ヨーロッパのデモクラシーの理論と実践には、
個人主義思想の強い影響を確認できますが、
日本の自由民権運動には、
天賦人権説などの援用はみられるものの、
むしろ、国家主義的色彩が濃厚です。
・明治初期の民権論者が民権論を主張するにあたって、
国家の独立を維持し国権を伸長させるためには、
自由民権の実現が不可欠だと説いて、
国民から支持を獲得しようとしていた
・国家は軍事力ではかられ、その軍事力はといえば、
共同体の結束力から生ずるものである、
そしてその結束力を培うのは何かといえば、
それは国会なのだとたたみかけている
←山梨県の民権派新聞『峡中新報』1879年
・「人民愚なれば政府も亦愚ならん。人民智なれば政府も亦智ならん」
←福沢諭吉『通俗民権論』
・朝貢体制とは「定められた儀礼の体系を守っている限り、
緊張が必要以上に昂まることはなく、とすればこの関係は、
双方にとって軍事的な必要以上の負担がかからない、
極めて安価な安全保障のための装置」(茂木敏夫による定義)でした。
・兵備がなければ国家の独立はかなわない、
条約と万国公法があるといっても、
それは強い者に対しては大義名分を与え、
弱い者に対しては同情を買うための口実を与えるに過ぎない
←山県有朋


第4講 利益線論はいかにして誕生したか

・シュタインが、明治政府の指導者、
なかでも伊藤に与えた大きな影響を三点にまとめれば、
①ヘーゲルの法哲学から出発しつつも、
パリに赴いてフランス社会主義者と直接交流をもつことによって
社会問題の重要性を知り、最も早い時期に、
ヘーゲル法哲学とフランス社会主義の総合を試み、
それを伊藤らに伝えたこと、
②明治憲法の柱となる権力分立の柱となる
権力分立の基本構造を伝えたこと、
③国家による社会政策の重要性までも伝えていたこと
←ローレンツ・フォン・シュタイン
・朝鮮が日本の利益線であると明言した人物が、
明治憲法の生みの親であるともいえる、
ほかならぬシュタインであったと


第5講 なぜ清は「改革を拒絶する国」とされたのか

・即ち日本の独立自衛のための
朝鮮の独立(中立)を確保しなければならず、
その独立(中立)を阻害すべき清韓の宗属関係をなくすためには
清国を朝鮮半島から排除するという論理に、
内政改革に熱心な日本、それを拒絶する清国という、
きわめて単純な対比の論理が加わりました。
これは、国民が戦争を理解する上で、
軍事戦略論から説く利益線論よりは、
有力な論理の道筋を提供していった
・日清戦争を「開花と保守の戦争」と位置づけ、
日本軍は「文明節度の師」、清国軍は「腐敗怯懦の兵」といって、
国民が心の底から清国側の態度を憤激できるような、
わかりやすい構図を描いたのでした。
・「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦」
←『時事新報』1894年7月29日論説
・戦争を起こす段階になってからは、
軍事戦略上の問題とは次元を異にする論理が用いられるようになり、
最終盤では、いくつもの論理が援用されて一挙に戦われた
・内政改革を推進する国と拒絶する国とのあいだの戦争、
開花と保守のあいだの戦争、
文明と野蛮のあいだの戦争、
朝鮮独立確保のための義挙など、
戦争の意味づけはさまざまに変化していきました。
現実の問題としては、開戦後は国民も国家もともに、
戦争によって得られる現実的な利益への期待感を
隠さず語るようになることで、
戦争を受けとめる構造が形成されていった


第6講 なぜロシアは「文明の敵」とされたのか

・日清講和条約は東アジアの国際関係を、
宗属関係の強化再編をめざす清国を中心とした国際秩序から、
「国民国家システム」の国際秩序へと、
最終的に移行させるはたらきをしました。
・列強の経済活動の内容自体が、これまでの商業・貿易上のものから、
借款担保としての鉄道敷設・鉱山開発へと移行した
・横並び意識が強いムラでは、徴兵検査は、
同世代の若者が共に男として一人前の証をうる機会として
考えられていました
・ロシアが勝てば彼らはますます国内の圧政を強めることになるが、
敗ければ自由民権論が国内に勢力を占めていくことになって、
専制に代わって立憲となり、その対外政策も当局者の野心ではなく、
国民一般の輿論に支配されることになるので、
ロシアは平和的な国家になる、そのような展望のもとに、
「露国を膺懲(ようちょう)するは
或は日本国民の天授の使命ならん」と語られた


第7講 第一次世界大戦が日本に与えた真の衝撃とは何か

・相手方は早晩、復讐戦争に打って出ると山県はみており、
ロシアの復讐戦にどうやって備えたらよいのかという問題に、
頭を悩ませていました。
・日露戦争後の社会は大きく変容したといわれてきましたが、
そうした変化の根本には、端的にいえば、
維新以来の「国家の元気」が
もう日本には期待できなくなったという政府の側の喪失感と、
「国民の元気」による戦勝を
政府が踏みにじったという国民の側の失望感が、
広く深く社会に根ざしたことがありました。
・戦争の結果、日本は債務国から債権国に劇的に転換出来ました。
連合国の軍需品・食料品需要、アジア諸国などの日本製品需要、
大戦景気にわくアメリカの生糸需要、の三つの要因によって、
輸出が急激に拡大したからです。
まさに元老井上馨が表現したように、
大戦は国際収支の危機に悩む日本にとっては天祐でした。
←第一次世界大戦
・伊藤(巳代治・枢密院顧問官)らは、国際連盟は机上の理想論に過ぎず、
欧米の一等国が現状維持を目的として
二等国以下の将来の台頭発展を抑えるための機関であり、
公義人道をまとった偽善的一大怪物である、と認識しておりました。
・アメリカが最終的に連盟に加入しなかった経緯において、
日本人の移民や帰化の問題が、かくも大きな比重を占めていたことは、
改めて強調されていいことでしょう。
←移民や帰化の問題は国家主権に関する最重要事項
・この移民法にとって
新たに禁止される日本人移民の数が問題だったのではまったくなく、
新たな排日移民法は日本の武威についての、
とくに中国が日本をみる際の評価にかかわることが問題だとして、
深刻に受けとめられていた
・講和会議が日本に与えた真の衝撃とは、
次の二つに集約できます。
一つは、松岡の言葉でいえば、
検疫を旧来の帝国主義的な外交で獲得する方法は
special pleadingであり、もう「野暮」なのだとの認識が生じていたこと
・移民法などに対しては徹頭徹尾国際条約違反であると主張して、
その点からアメリカの非理を暴いていこうとする
原理的な対決姿勢が、日本軍の中に生れた


第8講 なぜ満州事変は起こされたのか

・(総力戦という用語は)17年7月22日にフランス首相クレマンソーが、
議会における質問演説中に唱えた
←ドーデ
・(総力戦とは)武力を中心とする戦争であることはもちろんですが、
軍事・経済・思想など、国家の全面的総力をあげての
激烈な総合戦で、かつ比較的長期にわたり、
また、国家の経済力が思想的・政治的団結力とともに
異常に重要性をもっている戦争形態
←土屋喬雄『国家総力戦論』
・戦費調達に必要な財源の限度というものはないということが、
長期化する大戦で明らかになりました
←ドイツの敗北は財源ではなく海上封鎖による原料・食糧の欠乏による
・アメリカが日本に6割比率を要求するのは、
それが日米戦争の際に、アメリカを優位に置くための
作戦上の要請からくるものではないかとの疑念が
日本国民のなかに深くあり、7割以下の条約では、
その国民の疑念を払拭することはできないのだと、
若槻は論じていたのです。
・「自国に不可欠な軍備は防禦のためであり善行であるとし、
他国のそれは攻撃のためであり悪行であるとする着想は、
特に効果を示した。
・「国際的団結とか世界連合の主張は、
結合した世界を統制することを望んでの
支配国家から出される」、またいわく
「国際秩序とか国際結合というのは、つねに、
これを他の国に押しつけるだけの強みを感じとっている
国家の唱えるスローガンであろう」
←E・H・カー
・対外的危機意識が、国民的一体感や国家の統合を
進展させていくという構造が生まれてきます


第9講 なぜ日中・太平洋戦争へと拡大したのか

・満州全体を奪取する究極の目的は、対米戦にある
・満州事変が起こされる以前にすでに、完全な二分法による、
絶対的な怒りのエネルギーが蓄積されていた様相がうかがえるのです。
戦争をおこなうためのエネルギーの供給源は、
まさに国際法にのっとって正しく行動してきた者が
不当な扱いを受けたという、
きわめて強い怒りの感情でした。
・国民のなかに、連盟における調査と調査団の報告を、
あたかも国際法の威厳が試される場として、
黒白の審判が下される場として、
非常に大きな期待をもって注視していくという
感情がめばえます
・不戦条約と中立法とによって規定され、
日本、中国、アメリカのいずれの国もが
それを戦争と呼ばないことに利益を見出す、
実に奇妙な戦争が、太平洋戦争勃発まで
4年以上も戦われることになりました
・日本にとって中国のナショナリズムが問題にされた理由は、
それが、条約などの国際法、すなわち、
西欧的秩序の基本要素を中国が守らないとされたからでした。
ところが、それから10年あまりたった太平洋戦争の時期にあたって、
中国のナショナリズムが問題とされた理由は、
「西欧的秩序の基本要素の一つである主権的独立をもった民族国家」
という形式に、中国が拘泥しているからというのです。
中国を測定する日本側の軸が、明らかに変化しているのです。
・日本、中国、満州が
「運命を同じくする三国の超国家体」として協同する以外に、
アジアの農業問題の同時的解決はありえないとの、ゆるぎない確信
・アジアの生産性を協同して工場させて、
半封建・半植民地的な地位から脱出するために、
新秩序建設の必要性があると構想されている


あとがき

・戦争責任について容易に論ずれば、
「誠実を装った感傷主義か、鈍感な愚かしさか、
それとも威張りちらした居直りか」になってしまうと
喝破したのは丸谷才一氏でした

 


 

 

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