『出産と生殖観の歴史』
新村拓 著
1996年刊 法政大学出版局
古代や中世の日本において
神仏や観念の世界のものであった生殖が
身体の客体化や社会の変化とともに変わっていき、
現代には客体化されたものが科学と国家によって管理されるようになっていく。
その歴史が中国や西欧との関係も交えながら書かれた本である。
『出産と生殖観の歴史』
新村拓 著
1996年刊 法政大学出版局
古代や中世の日本において
神仏や観念の世界のものであった生殖が
身体の客体化や社会の変化とともに変わっていき、
現代には客体化されたものが科学と国家によって管理されるようになっていく。
その歴史が中国や西欧との関係も交えながら書かれた本である。
『お産椅子への旅』
長谷川まゆ帆 著
2004年刊 岩波書店
ヨーロッパで使われていたお産椅子の歴史を通じて
産婦の身体と社会や医学の関りを研究した本。
議論としてややまどろっこしいところもあるが
事例としてはたいへん興味深いものである。
これは人類にとって「産む」とは何かという
根源的とも言える問いに一歩近づくための旅でもある。
『人間の経済』
K・ポランニー 著 玉野井芳郎・栗本慎一郎・中野忠 訳
1998年刊 岩波書店
自己調整によって動き続ける現代の市場経済を
いかにして再び人間社会に「埋め込む」のかという
壮大なテーマをもったポランニー経済人類学の
総まとめとなった遺稿集である。
ポランニー亡き後、市場経済のグローバルな浸食は続いており、
旧共産圏やイスラム圏、途上国に大きな貧富の断絶を作り、
先進国の中産階級を滅ぼし、
テロとポピュリズムの台頭を招いている。
大戦前のヨーロッパの亡霊が、
地球全土をまさにグローバルに覆っているような不気味さがある。
そして今は白馬の騎士のアメリカはもういない。
『経済の文明史』
カール・ポランニー 著 玉野井芳郎・平野健一郎 編訳/石井溥・木畑洋一・長尾史郎・吉沢英成 訳 2003年刊 ちくま学芸文庫
ポランニーの著作集で10編が集められています。
内容は「市場社会とは何か」「現代社会の病理」
「非市場社会をふりかえる」 という三部に分けられています。
この中で特に注目されるものとして
第三部の経済の歴史研究があげられるでしょう。
ハムラビ時代やアリストテレスの時代に「経済」が
どうとらえられていたか。
それが現代とどう違うのか。
それによって現代の特殊性、「人間の経済」の
普遍性が浮かび上がります。
そして
「唯一無二のフレーム・オブ・レファレンスとしての市場は、
市場制度そのものに関してさえ少々時代遅れなっている。
しかし、市場そのものをその一部として理解することができるような、
より広いフレーム・オブ・レファレンスを発展させることに
社会科学が成功しない限り、
一般的なフレーム・オブ・レファレンスとしての市場
を 乗り越えるものは現れないであろう。」
と述べています。
しかし、数字を突き詰めることで語られる<市場経済>とは、
社会の科学そのものであるようにも思えます。
であれば、社会科学が市場を乗り越えるには
社会科学が科学ではなくなるような地点から
語り始められなければならないのかもしれません。
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『お金の流れでわかる世界の歴史』
大村大次郎 著
2015年刊 KADOKAWA
「お金/資本」の流れを中心に据えて
世界史の重要な局面を読んでいくので
一貫性があってわかりやすく、読み物として楽しい。
ここには歴史を学ぶことの面白さがあり
高校の世界史の副読本などとして是非おすすめしたい本である。
『お金の流れでわかる世界の歴史』
大村大次郎 著
2015年刊 KADOKAWA
古代から現代に至る社会状況のトピックと
「お金・資本」との関係が書かれた本。
歴史を一つのテーマで切り取っていくのは興味深いものであるが、
一面的になり過ぎてしまうという弱点と裏腹でもある。
また、どんなに面白い史実であっても、
それが歴史の流れとどうかかわるのかという点を外すと
豆知識以上の価値をもてない。
宗教史にも当然、その時代時代の経済的背景がある。
しかし経済だけですべてが決まるなら
宗教そのものが不要になるので
宗教と経済はいつも歴史の道連れであった、
というくらいに解釈しておくのがいいだろう。
それならウェーバーの顔もマルクスの顔も立つ。
近所の伊沙砂神社に初詣に行ってきました。
伊沙砂神社は本殿が重要文化財に指定されている比較的古い神社でです。
毎年、大晦日の深夜になると
多くの人が初詣の行列をします。
この時は100人くらい並んでいて
行列の最後尾は狭い境内から溢れてしまい、
渋川通りではそのための交通整理まで行われていました。
昼食時の人気ラーメン店のようです。
それだけ人が並んでいるのに
手水を使う人はほとんどいませんでした。
その理由は
1.それが何のためにあるのか知らない
2.寒いので水に触れたくない
3.行列することだけが目的で並んでいる
といったところでしょう。
浄めの作法をショートカットする人の多くは
除夜の鐘も無視しているので
結果として
俗世の煩悩の塊が大量に神社に集まり
大晦日の深夜には
神域の穢れがピークを迎えるということになります。
その水でも鐘の音でも浄められなかった
膨大な穢れを一気に浄化するために、
かどうかはわかりませんが、
境内では絶えず火を焚いています。
個人的には煩悩の順番待ちをするより
無心でこの炎を眺めている方が
御利益があるような気がします。
最後に御神酒を頂いて
お帰りはこちら。
本年が皆様の煩悩にとって
良い年でありますように。。。