『お金の流れで読む日本の歴史』 大村大次郎 著  2016年刊 KADOKAWA

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お金の流れで読む日本の歴史2

 

『お金の流れでわかる世界の歴史』
大村大次郎 著
2015年刊 KADOKAWA

 

古代から現代に至る社会状況のトピックと
「お金・資本」との関係が書かれた本。
歴史を一つのテーマで切り取っていくのは興味深いものであるが、
一面的になり過ぎてしまうという弱点と裏腹でもある。
また、どんなに面白い史実であっても、
それが歴史の流れとどうかかわるのかという点を外すと
豆知識以上の価値をもてない。

 

 

以下、本文より・・・

・「三国史記」によると、このとき日本側は1000艘の船を用いていたという。
ということは、兵士の動員数は少なくとも「万」以上だったはずだ。
この時代に1000艘以の船、万以上の兵士を朝鮮半島に派遣するには、
国力が相当なければ不可能だ。←倭国
・何が栽培されていたかというと、「栗」である。
紀元前3500年から紀元前2000年頃の集落に遺跡だとされる
青森県の三内丸山遺跡の調査から、
その時代に栗が栽培されていたことがわかった←縄文人
・その当時から日本では広域貿易圏が存在していた
・蘇我氏は、「斎蔵」「内蔵」「大蔵」の管理など、
朝廷の財政に深く関与することで、台頭した
・蘇我氏は、税を管理するポストに就いて大出世し、経済力もつけたのである。
・「それなりの地位にある人間が
国家のことを思って権力者を倒し、革命を起こす」という、
日本特有の革命の図式の起源
・豪族などによる田畑の私有を禁止し、すべては天領の領地とする
・田畑を民に貸し与え、民は租庸調の税を払う
・それまで重要な役職は世襲制だったが、
これを廃止し有能な人材を充てる・戸籍を整備する
・「賑給」というのは、高齢者や貧困者などのために塩・米・布などを支給する制度
・出挙は、当初は貧しい農民の救済策だったが、
多くの利を生むものであったので、天平6(734)年ごろから税源として
あてにされてしまい、大規模化していった。
やがて農民に強制的に種籾を貸し出すようになり、
結局、正規の税として組み込まれたのだ。
・京都の有力貴族というのは、一方では国司となって私腹を肥やし、
一方では富豪農民と結託して不正な収入を得ていた。
・新しい通貨を発行するたびに、「万年通宝」のような無理な価値設定をしたために、
人々の間で、「銭離れ」が起きるようになったのだ。
そして天徳2(958)年の「乾元大宝」を最後に、朝廷は銭の鋳造をやめてしまった。
その後、日本は米、布を通貨代わりとする
「米・布経済」に逆戻りし、それは平安時代の末期に
宋銭が大量に流れ込むまで続くのである。
・清盛は福原(現在の神戸市)に別宅を構え、
長寛元(1163)年には、大輪田泊港(現在の神戸港)に大改修を施した。
・日本で貨幣を本格的に流通させたのは、平清盛
・頼朝は、その国家体制を壊し、武士により新しい社会経済体制をつくろうと画策
・鎌倉幕府は全国に割拠していた武家の代表者に過ぎず、
実際の統治は地域各々で行われていたことがわかる。
鎌倉幕府は全国で武家に号令する権力は持っていたが、
それは軍事に関することなど非常に限られた範囲のものだった。
つまりはそれが「封建制度(各地域を豪族が統治する)」なのである。
・応和3(963)年以来途絶えていた貨幣の鋳造を再開
・「酒屋土倉役」というのは、「酒屋」と「土倉(金貸)」の業者
・中世から近世にかけて、商業の主役は酒屋だった。
当時から酒には高い需要があったのだ。
・明と貿易するためには、明から冊封を受けなければならない。
冊封というのは、明の皇帝から、「お前をその国の国王にする」という任命を受けること
・将軍より守護大名の方がお金をもっていた
・1万数千貫文は約500~600億円
・八代将軍義政の時代になると、
幕府は勘合符を希望者にバラ売りするようになった。
勘合符は1枚当たり300貫文が相場だった
・戦国時代は、守護大名同士の権力争いが発端となっているが、
その根幹には、室町幕府の財政破綻がある
・当時のポルトガル船は東南アジアを根拠地にし、
明や日本を行き来して利ザヤを稼いでいたのだ。
ヨーロッパからの物資を運ぶということもあったが、
それはごく一部であり、大半は、アジア圏内を行き来していたのだ。
つまりポルトガル船というのは、今でいうところの貿易商社
・当時の南蛮貿易は、戦国大名たちの鉄砲に関する軍需物資を
事実上、独占的に商ったのである
・1494年、ローマ教皇に承認されたトルデシリャス条約では、
「ポルトガルとスペインで世界を二分してよい」ということになっていたが、
これは「キリスト教を布教すること」を条件とされていた。
つまりは、「未開の人々にキリスト教の福音をもたらすために、
世界を占領しなさい」ということである。
・京都から東北に行く場合、琵琶湖を船で上るのが一般的
・戦国大名たちは、交戦相手や、仮想敵国の国力を弱めるために、
経済封鎖をよく行った。自国領から、敵国への物流を制限するのである。
・室町時代から戦国時代前半にかけて、日本の資産の多くは寺社が所有していた
・寺社は、全国規模で展開する悪徳金融業者
・この米を比叡山にある日吉大社が、出挙として高利で貸し出していた
・延暦寺日吉グループは、〝土倉業界〟でも首領的な存在となり、
京都の土倉の8割は、彼らの関連だったとされている。
また京都だけでなく、全国の土倉にも影響を及ぼしていた。
・南宋が滅亡した後は、元王朝が紙幣使用を強制したため、
中国で使い道がなくなった銅銭が、日本に流れ込んだ。
この銅銭が、日本で貨幣として流通するようになった
・この中世の貨幣経済は、戦国時代後期になってほころびを見せはじめる。
中国の銅銭が入ってこなくなったのだ。
そして、金融不安ともいえるような状態さえ起きていた
・戦国時代には、渡来銭ではない日本製の貨幣が流通するようになった。
これは「京銭」「打平」と呼ばれていた。といっても、
幕府や朝廷がつくった貨幣ではないので、
それは私鋳銭、つまり贋金ということになる。
・中国でも16世紀前半に、私鋳銭が大量につくられ、日本にも流入していた。
これは明からの正式な輸入品ではないので、いってみれば密輸品である。
・信長の金融制度改革というのは、
簡単に言えば、金銀を貨幣として流通させた、ということである。
・戦国時代では、社会のシステムが崩壊したことで、
力の強い者がどんどん収奪するようになっていた
・ポルトガルは、長崎で日本人の奴隷を買い込み、世界各地に輸出していた
・ポルトガルの宣教師たちは、武器売買や奴隷売買に加担し、
その利益で慈善施設などをつくり、施しをエサにして信者を獲得していた
・江戸時代に入ると、各鉱山で産出量が減少しはじめる。
戦国大名たちが採り過ぎたのである。
・銅の産出は1660年に年間1200トン程度だったが、
1690年代には3000トン前後になっていたとみられている。
元禄年間には産出量が最高潮に達し、年産6000トンにも及んだ
・信長は、石山本願寺が開城するや、3日間、昼夜を問わず焼き尽くす。
そして、跡地に巨大な城の建築を開始した。それが大阪城である。
・「武士の借財の帳消し」は、享保の改革以来、だしたい50年周期で行われている。
・幕府は〝帳消し〟を行うたびに、
札差(金貸業者)に対して特別融資を行うなどをして、
金融不安が起こらないようにしていた。
・インフラ整備のときに多めに取られていた年貢も、
その多くは人夫として雇われた農民などに支払われた
・家康が、秀吉による国替えで江戸に入った時、
人を呼び寄せるために最初は地税を取らなかったのだろう。
それが、町民の「既得権益」となってしまったのだ。
・平時でも江戸幕府の収入の1/3近くを占めていた
←「貨幣改鋳」による財政再建
・万延二分金は、「金が約2割、銀が約8割」の代物で、
金とは名ばかりの金貨だった。これまでの二分金と比較しても、
約60%程度しか金が含まれていない。
つまり40%分は幕府の差益になるということだった。
しかもこの二分金は5320万両も発行され、
二分金としては江戸時代を通じて最多の発行額だった。
・大法馬金というのは、幕府が蓄財していた金の分銅のことで、
一個あたり41貫(150キロ)ある。
万治年間にはそれが126個あったのが、天保年間には26個になり、
慶応年間にはわずか1個に激減していた。
その1個も、江戸開城時には見当たらなかったのだ。
・幕府から明治初期の間に、薩摩をはじめ会津藩、安芸藩などでも、
万延二分金の贋金を鋳造していたことが判明している。
とくに薩摩藩は、かなり早い時期から鋳造技術者を
わざわざ江戸から呼び寄せ、相当な額の贋金をつくっていたとされる。
・諸藩がつくった贋金は、一説には300万両にも上る
・廃藩置県がスムーズに行われたのは、藩財政の悪化も大きな理由だといえる。
大名家は藩領を手放すことで、財政問題からも解放されたからだ。
・大名家は廃藩置県によって借金から解放され、
華族として相当な俸禄をもらっていたので、
かえって経済的に豊かになった者も多かった。
・地租改正では、土地の所有権である「地券」という権利が
定められていたからだ。農民が耕作している農地に対して
「壬申地券」というものを発行し、近代的な所有権を確立させたのだ。
農民は、この地券に応じて地租(税金)を払うことになったのである。
逆に言えば、農民は、土地の所有権を与えられたのである。
・江戸時代では収穫高に応じて年貢を納めていたので、
もし収穫があがっても、その分、年貢も増えることになった。
しかし、地租の場合は、納める税金は収穫にかかわらず一定だったので、
農民としては頑張って収穫を増やせば、増えた分は自分の取り分になる。
そのため勤労意欲がわくことにもなり、結果的に生産量が増加しているのだ。
・日本は江戸時代からすでに「生糸大国」だったのである。
日本は、生糸を欧米に大量に輸出生産力、技術力を持っていたのだ。
・当時アメリカの最大の輸入相手は日本で、
明治末期には生糸の7割を輸入していたのだ。
・大日本帝国はなぜ、少ない費用で強い軍をつくることができたのか。
その要因の一つとして、「汚職の少なさ」がある。
・日本は増税なしで、酒税だけで日清戦争を戦い抜いた
・日清戦争前年の国家歳出が、8400万円程度だったので、
歳出1年分の軍事公債を国民だけで買ったのである。
・天皇が「国を疎かにすると百年の悔いを残す」として、
皇室費と公務員の給料を削減して建造費を補てんした。
・日露戦争の4年前のGNPを比較したものである。
日本はロシアの1/8、イギリスの1/9、アメリカにいたっては、1/15にしかならない。
・満州国の建国は、南満州鉄道の利権争いが発端
・満鉄は「鉄道経営」をするだけではなく、
沿線の都市の事実上の行政権も獲得した
・「軍部が大陸で勢力を伸ばすことが農村を辛い生活から救ってくれる」
というような錯覚を大勢が抱いていたわけである。
・昭和7年当時、農家の1戸平均の借金は840円で、
農家の平均年収723円を大きく上回るものだった。
・昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、
村内の15歳から24歳までの未婚女性467名のうち、
23%にあたる110人が家族によって身売りを強いられたという。
警視庁の調べによると、昭和4年の1年間だけで
東京に売られてきた少女は6130人だった。
・終戦時、三井、三菱、住友、安田の4大財閥だけで、
全国の会社払込資本金の49.7%を占めており、
資産額ではそれよりももっと高い比率を占めていたとされる。
日本経済の過半は、数家族の財閥に握られていたのである。
・昭和2年の度の長者番付では、1位から8位までを
三菱、三井の一族で占めていた。
岩崎久彌などは430万円もの年収があったのだ。
大学出の初任給が50円前後、労働者の日給が1~2円のころである。
普通の人の1万倍近い収入を得ていたことになる。
・第一次大戦終結から第二次大戦開始までの「戦間期」、
日本の最大の輸出相手はアメリカだった。
なんと日本の輸出の4割をアメリカが占めていたのだ。
・資産凍結は、実は日本経済を破壊するような凄まじい威力
・太平洋戦争中、日本は公債を発行し、
日銀がそれを引き受けて日銀券(紙幣)を発行した。

・日本は、物資の統制によりインフレを抑えていた
・企画院の「対米戦争における影響の予想」は、 3年分しか策定されていなかった。
・戦後の日本は、機械類の輸出で世界貿易の中心に躍り出たともいえる。
この日本の輸出を支えたのは、実はユダヤ商人たちだった。
・昭和5(1930)年から昭和10(1935)年まで、
日本の自動車メーカーの普通乗用車の生産台数はゼロ
・元海軍技術将校だった盛田昭夫
・井深、盛田は、レーダー関係の兵器開発の研究

 

 

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