『出産と生殖観の歴史』 新村拓 著 1996年刊 法政大学出版局

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『出産と生殖観の歴史』
新村拓 著
1996年刊 法政大学出版局

 
古代や中世の日本において
神仏や観念の世界のものであった生殖が
身体の客体化や社会の変化とともに変わっていき、
現代には客体化されたものが科学と国家によって管理されるようになっていく。
その歴史が中国や西欧との関係も交えながら書かれた本である。

 

 

以下、本文より・・・

・解剖が盛んに行われて意味と事実との乖離が明確となり、
いわゆる世俗的・物質的な身体の誕生というものの芽が出はじめた近世後期
・「ヒポクラテスが医学を体系に還元してしまった後では
観察が放棄され、哲学が導入された」
・日本における実物観察は、宝暦8年(1758)に
長州の儒医である瀧鶴台が女屍を解剖したことに始まっている
・わが国の解剖に関する初見記事は
『日本書紀』雄略天皇3年4月の条とされている。
・自然を精巧な機械と考え、その背後に神の企図と計画を
読みとろうとした17、18世紀のヨーロッパの自然科学者が、
領域分担と専門分化の信仰につれて神への関心を薄め、
没価値的に自然の仕組みや自然と人間との関係を説明する方向に進んだ
・「天命」「天道」の支えがなくなっても
安定した政治基盤を築くことができ、天人相関論から解放されたとき、
社会ははじめて受胎のコントロールや避妊といったことに対して、
思いを巡らす自由を得た
・生のなかにすでに死が含まれているから、
死の忌が生にも適用され、産穢の忌と死穢の忌の期間が同一になるという論理
・民衆のなかに芽生えた意味論を否定する感覚は、
その後、解剖学者らによって裏付けが与えられることになった
・受胎とは、男女の「先天の気」の交合を指しているが、
具体的には肉体の物質的な基礎である「精」の交合と、
その際に生じた「神(しん)」が心に宿って「魂魄」の整うまでの一連のプロセス
・従来の医学のパラダイムを支えてきた陰陽五行論を否定した
医家グループの下においては、
生殖は天人相関論の枠組みから離れた形而下での出来事と
理解されるようになったが、
彼らが推し進めた解剖はケガレの源泉であった屍体を
知識の宝庫に変える一方で、
身体は完全に客体視され、天の支配から離れた観察されるモノとなった。
・18世紀の半ばに始まる解剖医たちの仕事は、
それらを追認し保証を与えるとともに、
神仏の威信の低下は、身体がもっていた象徴的な意味を奪うことになった
・1970年代半ば以降、超音波、CT、MRI、サーモグラフィーなどを
用いた画像診断の技術の導入によって、胎児の成長を
視覚下にとらえることができるようになったことから、
胎児生命を抽象的なものではなく具体的な形をもったもの、
同じ人間であるという認識を深めさせることになった。
・日本の古代中世における胎児についての見方をまとめれば、
基本的には受精・受胎のときをもって生命の胎期、
人間としての生活が始まると考えられており、
胎動の感じられる時期になって胎児への人格的な対応が始められている。
・新生児に対する「名付け」の村落的風習が南北朝期に始まっていた
・民衆にとっては俗書の発生論の方が馴染みやすく、
彼らの胎児イメージは長らく仏具のもとにとどまることとなった。 ・もうひとつ世俗で言われていることに、堕胎・間引きは
この世とあの世とを往来する不安定な状態にある
胎児・新生児をあの世に戻すものであって、
殺すのではないという論理、
あるいは新生児は誕生後に執り行われる
ひとつの出産儀礼を経るなかで、
はじめて人間になるのであって、
それを経ないうちは新生児といえども人間ではないという考え方がある。
・かつては子どもが生まれるまでは入籍をさせず、
妊娠が結婚の社会的承認となっていたところもあって
・月経を生理と言い換えるようになったのは、
昭和22年公布の労働基準法第6章68条に生理日が登場して以来
・平安後期に始まる着帯は、五か月目を中心に
その前後の月において行われていたが、
次第に五か月目の戌の日に収斂されるように
・柳田国男、脇田晴子氏らによれば、腹帯をして新羅に渡った
神功皇后が帰国の後に無事に出産したという伝説にもとづいて、
皇后が産神として注目されるようになるのは、
蒙古襲来以後の国粋主義的な風潮においてであった
・中世から近世にかけての伊勢、水島流の礼法においては、
着帯奉仕のことや腹帯の形態などに関して細かな記述がみられる
・妊産婦の死亡率(出生10万人対)は明治32年(1899)に
449.9とあり、それが半減をみるのが昭和15年(1940)のことである。
→平成4年は9.2
・20世紀を迎えるまでは30代の既婚女性が死ぬ危険性は、
夫よりおそらく25%高かったともいわれ、
それゆえイギリスの近代では、既婚者の1/4が再婚者であったともいう。
・ウブメがいつから産死した女の霊を
意味するようになったのかわからないが、
そうした観念は少なくとも『日葡辞典』の編さんされた
戦国期には、広く人口に膾炙したものとなっていたのである。
・分娩に至らず死亡した妊婦の場合、
胎児を引き出し身を二つに「腑分け」してから埋葬しないと、
成仏できないとか、遺族にさわりがあるとか、
埋葬後に子どもが生まれてしまうとった観念が広くみられる。
・妊婦の腹から引き出された死児のその後については、
前の『日本産育習俗資料集成』によれば、
「法名をつけて葬儀をする」「地蔵を建てて供養する」
「人形を添えて合葬する」「妊婦の背に死児を負わせて埋葬する」
といった処置がとられている。
・出産は一つの身体でありながら二つの生命をもった、
いわば境界域におかれていた妊婦が、
その状態を打ち破って新しい人間関係、
神と人との関係を打ちたてなければならないときであると同時に、
これまでの平衡関係や秩序を乱したことから生ずる穢れをはらい、
清めが求められるときでもある。
・旧産婆から新産婆への移行は、
新産婆が示す「近代医学的心性」に産婦が染まり、
「自分の身体をあたかも客体のように喜んで他人任せにする態度」
を生み出す過程でもあった。
・明治中期および後期の平均婚姻年齢は、
東北地方の男が、23.9歳以下、女が19.9歳以下、
近畿・西日本の男が26.0歳以上、女が22.0歳以上
←東は早婚、西は晩婚
・無子であることは責任をもっておのれのために
追善供養をする者がいない状態であり、
したがって、来世においてもその者は罪の中に沈重する
←北条重時の家訓
・近世の武家女性は「貞女二夫にまみえず」式の貞操観が薄く、再婚率は6割
・無子が個人的な不孝・不幸にとどまらず、
国家にとっての不幸・社会的な不幸と捉えられている
←明治期
・「仏独等の国では一笑に付」されているが、
「英米二国に於いて唱えら」れている「人工妊娠法」
←明治期
・フランスでは性交中断による避妊が18世紀において定着をみたというが、
日本でもそれを用いた受胎調整が行われていた可能性は高い。
・フーコーによれば、個人のセックスの用い方にまで国が干渉し、
性が国家と個人との間で公的な論争となるのは、
ヨーロッパでは18世紀に始まるというが、
日本ではそれよりも1世紀ほど遅れている。
・「奇異(くす)しき」モノと思われているものも、
世の中に現にあって働いているカテゴリーの中の
いずれかに分類し所属させてしまえば、
そのモノがもっていた奇異性は失われ、
人々は安心してそれを受け容れることができるのである。
・胎児診断をうけ障害に事実を知りながら回避義務を怠って出産した場合、
障害の苦しみを負った児が成人に達したのち、両親を相手に訴訟を起こす可能性
・性愛は通常、結婚という儀礼を通してはじめて正当化されるが、
近世社会ではさらに、その性愛も生殖をともなってこそ意味があるとされる。
・授けられるものから作るものへの意識の転換には、
江戸中期における生殖観論の変革という事態が大きくかかわっております。

 

 

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