取り戻されたローカル ~たかしまびれっじ~

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たかしまびれっじはびわ湖の西側の高島市にあります。

高島市の高島地区で湖西線高島駅の近くです。

 

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今はとてものんびりした感じですが、

このあたりは古くからびわ湖の水運の拠点として栄えた地域です。

 

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びれっじのある場所は小さな旧城下町で、

昔の商家を改装してカフェや体験サービスの運営などがおこなわれています。

 

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かつて地域の要であった豪商のお屋敷。

今の貨幣価値なら何億円も投入して建てられたものでしょう。

 

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それを少しずつ、地域のアイデアと有志の手作業で

リノベーションされています。

ローカルを大切にする地域の人たちの気持ちの賜物です。

 

高島びれっじ1

 

ここは観光施設であるにもかかわらず、カメラを構えているだけで怪訝な顔をされるくらいの閉鎖性も残っています。

 

この施設は観光というより、失われそうになっていたローカル・アイデンティティを再確立するためのシンボルとしての意味の方が強いのかもしれません。

だからこそ、地域の有志による手作りすることに意味があったのでしょう。

お祭りの神輿のように、地域の人たちの手で担ぎあげられ、盛り上げられて、地域がまとまり、ローカルなアイデンティティがつくられる。

お神輿には神様が宿りますが、この場所に宿るのは地域の歴史です。

 

 

 

大切な人が身近に感じられる・・小型骨壺

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普段の暮らしに溶け込むデザインの小型骨壺です。

 

 

江戸切子

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想花(そうか)

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大切な人を想い 手を合わせる祈りの時間が

癒されるものとなりますように・・

 

16,200円(税抜)~ 各種ございます。

 

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『国家神道と日本人』 島薗進 著 2010年刊 岩波新書

プリント

 

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国家神道と日本人
島薗進 著
2010年刊 岩波新書

 

近代日本の政府が国民を統治するためのシステムとして磨き上げた天皇祭祀。
神社組織を横糸とし、学校教育を縦糸として
地域と個人を徹底的に組織化して
人々を一枚の強靭な<国民>として編み上げた。
それは素晴らしく緻密で、極めて成功した統治手法であったが、
逆にそれがあまりに強靭過ぎて政府は自縄自縛に陥ってしまった。
それが先の大戦までの経緯である。
戦後、その手法は放棄されたが、
編まれた<国民>が解かれることはなかった。
統治としての宗教が無くなって日本人は「無宗教」になったが、
<国民>の宗教的な起源がなくなったわけではない。
目の前や頭の上から見えなくなっただけで、
<国民>の足下を支えているのは今でも古代から続く祭祀である。
戦後70年以上が経っても、足下の霊脈が枯れる気配はない。
・・・天皇制を廃止するという議論がなされることはない。
・・・それは無条件に信頼されているという意味で<宗教>である。
逆に時が経てば経つほど、変えられない歴史として
国民のアイデンティティを支えるものとしてその力は増していく。
これは「決して緩まないネジ」と同じ 日本人によるすごい発明品のひとつである。

 

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『超マクロ展望 世界経済の真実』水野和夫 萱野稔人 著 2010年刊 集英社 

プリント

 

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超マクロ展望 世界経済の真実
水野和夫 萱野稔人 著
2010年刊 集英社

 

少々安易なタイトルにも思える『超マクロ展望 世界経済の真実』。
<超マクロ>ということで、
話は封建制の行き詰まりから現在の量的緩和にまで及びます。
これはエコノミスト出身の経済学者である
水野氏の経済論をなぞるものでしょう。
それを政治や権力システムの面から萱野氏が補う形です。
饒舌な萱野氏ですが、自分より一回り以上年上の大学の先輩の前では
遠慮気味にみえます。
400年前の世界経済から10年後の日本経済の答えを導き出すのには
無理がありますが、水野氏の話は興味深ものです。
逆に100年単位の節目なら、10年前のことは参考になりませんから、
超長期から短期までバランスよく見ていくことも必要でしょう。
経済の話は、今日明日の稼ぎに直結するので、
どうしても近視眼的になりがちです。
でも、そこから離れないと見えないことも多くて、
見えないと猛スピードで突進してクラッシュしてしまいます。
クラッシュしても何度でも立ち直るのほど逞しいのが
資本主義なのかもしれませんが、
それを制御するシステムが資本主義の中に組み込まれていないのが
恐ろしい事でもあります。
資本主義は不死鳥であっても、
その事故に巻き込まれる人間は不死身ではありません。

 

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『没落する文明』萱野稔人 神里達博 著 2012年刊 集英社新書

プリント

 

没落する文明

 

没落する文明
萱野稔人 神里達博 著
2012年刊 集英社新書

哲学の萱野稔人と科学史の神里達博による対談。
組合せとしては興味深いし、
それぞれがおもしろい意見を述べられているけれど、
対談のコーディネートとしてはあまりこなれていない気がします。
(書籍としての編集時点での問題かもしれません。)
萱野稔人がホストの立場に徹しているニコ生での対談の方が
<没落する文明>としてはしっくりきます。
(といっても、ニコ生的なちょっと刺激的な放談という感じですが…)

対談の後半で、社会の近代化の特徴として、
人が「身分」から「役職」へと抽象化されることが述べられています。
話の本筋からは、少し離れたところですが、
これはたいへん重要な指摘です。
現代に生きる我々にとっては「身分」などというものは、
とっくに滅びてしまった不自由で非効率極まりない制度に過ぎません。
しかしそれが数百年、数千年単位で社会の基本になっていたのにも、
それなりの理由があったのでしょう。
近代的な「役職」が抽象的でヴァーチャルなものだとするなら、
それ以前の「身分」は具体的でリアルなものだったはずです。
「役職」は制服を着ている間だけの、その場限りのものですが、
「身分」は生まれる前の先祖代々から死んだ後の子孫代々まで
ずっと続くものです。
その二つは質も重みもまったく違います。
ヴァーチャルという意味では「役職」は貨幣やスマホの仲間であり、
リアルという意味では「身分」は宗教やナショナリズムと並ぶものです。
リアルとヴァーチャルの違いは、人がそのことに命を懸けるかどうかです。
もしかしたら、無条件に信じられるリアルを失って、
ヴァーチャルと戯れることしかできなくなっていく状況こそが、
悪魔に魂を売り渡してしまった文明の没落を示しているのかもしれません。
(そんなことはまったく述べられていませんが…)

 

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