植木鉢に入った観葉植物のようなデスククリーナー
かわいらしさと清潔なイメージが好評で
金融関係の粗品として納入が決まりました。
植木鉢の端にあまり目立たない程度に
名入れをさせていただきました。
『贈与の歴史学』 ~儀礼と経済のあいだ~
桜井英治 著
2011年 刊 中公新書
日本の中世に関わる膨大で混沌とした資料群から、経済という名の糸を紡ぎ出し、
このような見事な書物に織り上げた桜井氏の歴史家として力量は素晴らしい。
濃密で興味深い内容であり、1冊で4冊分くらいの価値がある。
中世末期の日本において、極限まで発展した贈与経済は市場経済へと羽化する。
「贈る」と「返す」が頻繁に繰り返されるうちに、中世末期には、
ただ「贈る」と「返す」の釣り合いを保つためだけに、
贈られたものとまったく同じものを同じ量だけ目録をつけて返す、
というような事が頻繁に行われるようになっていた。
そして、帳面上で相殺や差引きをして済ませるということまで起きていた。
贈ることの意味が欠落しながら、それでも自立的に豊かに回り続ける物品。
それは日本の社会が貨幣経済に移行していく下地になっていた…
意味を失い、没個性化し、非人格化することで、
贈与の中に潜んでいた呪力(マナ)も消滅し、
呪力から解き放たれた無名で純粋な「モノ」は、
市場経済で自由に取引されるようになる。
そして起きる二つの経済・世界観のせめぎ合いとしての徳政一揆。
モースの『贈与論』の日本における歴史上の姿がここにある。
また、対等な立場で行われていた贈与が、
一方的な「税」に変えられることで確立する支配関係や、
恒常化した贈与が「収入」と見なされる姿、
価値の元締めとして中央銀行のような権威があったであろう同朋衆の存在、
寺院に集積した贈与品を市場に還流するオークション、
手形の役割を果たしていた贈答品目録など、
貨幣のない世界で考え得るあらゆる経済活動が、
この時代には起きていた。
今から見れば贈答経済の爛熟が貨幣経済を欲望し希求していたかのようでもある。
近世から近代にかけて、「貨幣」という存在に
あらゆる<価値>が集約されるようになった。
「貨幣」は極めて強力な価値のメディアであった。
現代のわれわれは「貨幣」を捨てて、
電子化した大量の新しい価値の世界で溺れかけている。
中世の終りから近代「貨幣」にすべてが集約されていく
現代と同じような大転換の激流の中で、
人は何を感じ社会はどう変わって行ったのか。興味は尽きない。
第10回(2012年度) 角川財団学芸賞受賞
『贈答と宴会の中世』
盛本昌広 著
2008年刊 吉川弘文館
タイトル通り中世の贈答と宴会について記された本である
中心テーマは「接待の慣行」「年中行事と贈答」
「水産物の贈答」「甘いものの贈答」である
迫力のある大型プラネタリウムや
楽しいサイエンスショーで人気の大阪市立科学館。
宇宙や鉱物、香りや音など様々な展示があるが、
前身が電気科学館であったこともあり、
ここでは電気に関わるものが目に付く。
19世紀後半から世界はどんどん電気で満たされて
今では電気のない生活は想像することさえ困難だ。
電気があれば料理も洗濯も電話もできる。
夜を明るくして自動車も動くしマネーも動かせる。
逆にどれだけガスあって石油があって石炭があっても、
電気がなければ電話の1本もかけることはできないし、
あらゆるインフラの制御も
エネルギーの供給もできないし
バッテリーなしでは自動車も動かない。
電気は何物にも代えがたい。
(一般的にいう「モノ」ではないかもしれないけれど)
もし電気が使えなくなったら
通信も移動も調理もできなくなって
光を失った闇の中で
飢えた数十億の人びとが
マッチを求めて殺し合うことになる。
都市を中心に人類の7割、
いや9割以上は生き残れないかもしれない。
・・・やっぱり想像することさえ困難だ・・・
電気を操ることで独自の進化を遂げ
それなしでは生きられないという意味では、
いつの間にか現代人は過去の人類とは別の
<電気人類>になってしまったと言えるのかもしれない。
ホモ・エレクトスならぬ
ホモ・エレキネシスとでも呼ぶのだろうか。
南部先生の色紙は電気がなくても困らない数少ない展示品のひとつで、
展示品として理解するのがもっとも困難なもののひとつ。
もちろん、詳しく説明されても困難さが増すだけだけれど・・・
『<子供>の誕生』
フィリップ・アリエス 著 杉山光信・杉山恵美子 訳
1980年刊 みすず書房
ブルジョワ近代の意識構造の根幹部分に
鋭いメスで切り込んだ現代の歴史、社会学における重厚な古典。
近世に学校という枠組みが作られると同時に<子供>という存在が
社会的に強く意識され、社会的実在として確立する。
同時に家という仕切りが社会の中に<家庭>という
極めて強固な概念を作り出す。
中世に<子供>がいなかったわけではない。
近世になって<子供>という社会集団、
あるいは年齢によって区切られる社会の層が
意識されるようになったということである。
それは同時に
<子供>を核としたブロックとしての<家庭>が
敷き詰められて積み上げられた<社会>というイメージの固定である。
そしてそれは科学と啓蒙の果てに出現した
不動のブルジョワ世界観である。
社会における強力な世界観の確立は
社会構造の地殻変動の原因であり結果でもある。
そこにあるのは社会構造の
あるいは世界意識の基底の再編の物語である。