『グーテンベルクの銀河系』M.マクルーハン 著 森常治 訳 1986年刊 みすず書房  

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グーテンベルクの銀河系
M.マクルーハン 著 森常治 訳
1986年刊 みすず書房

 

この本を読んでいる「活字人間」である読者自身の成り立ちを
否定的に追いながら国民国家や電気通信の未来まで予言し、
読者をとても不安定でスリリングな状態にさせる内容である。
線によって導くのではなく点によって浮かび上がらせるような書き方である。
その点の一つ一つが銀河系の星々で、もしかしたら活字の一個一個なのかもしれない。
現時点で気になるのはインターネットと国民国家の関係である。
国家を超えたグローバルな個人の結びつきと
周辺で強固に固まる極端なローカリズム。
国家抜きの世界はネットの部族社会に変わっていくのだろうか・・・

 

 

以下、本文より・・・

・言語は、経験を備蓄するのみならず、
経験を一つの形式から他の形式へと翻訳するという意味で
メタファーであるといえよう。
貨幣も、技術と労働とを備蓄するだけではなく、
一つの技術を他の技術へと翻訳するという点では
やはりメタファーである。
・コロンブスは航海者であるよりもまえに地図製作者であった。
そしてあたかも空間が均質で連続しているかのように、
空間内を直線コースで進むことが可能であるという発見は、
ルネッサンス時代に人間が獲得したあたらしい意識となった。
・「ことばは視られる存在となることによって視る者に対し
どちらかというと冷淡な世界の側へと加わるのであり、
その世界はそれまでことばがもっていた呪術的な魔力が
抽象化によってすっかり抜き取られてしまった世界なのだ」
←カロザーズ
・軍隊組織であれ、産業構造であれ、
知識が現場で応用されるためには、
国民の質が均等、一様であることが必要なのだ。
・<文字>のようなメディアの精神内部への内化は、
われわれの五感の比率を変化させ、心理作用を変えるであろうか。
・どれかひとつの感覚が切り離されると
他の感覚どうしの比率が必然的に狂って
自己感覚が失われてしまうのだ。
・なぜ古代および中世の写本文化が
人間の心のなかに内部指向(インナー・ディレクション)を
与えることをせず、
印刷文化が必然的にそれらを行うか
・なによりも興味深いことは、原住民たちが
映像から話を組み立てられなかった点です。
実際、われわれは後になって彼等が画面の全体を
見ていなかったことに気付いたのです。
彼らはまず画面のなかにある細部から調べはじめていたのです。
・動物の運動はすべて身体の繰りかえし運動によってなされ、
そこにはサイクル、つまり循環の原理が含まれている。
この意味で動いている生き物はすべて一つの車輪といえよう。
アルファベットをもつ社会ならば、それに隣接する諸文化を
自国のアルファベット文化に翻訳することができる
・無意味な記号を無意味な音に結びつけることによって、
われわれは西欧的人間像の姿と意味とを築きあげた
・ベルグソンは著書のなかで、
もし世界の「すべての」事件の速度が2倍になったとしたら、
そして、そのことにわれわれが気付けるとしたら、
どうやって気付くのか、と自問している。
・経験を単一平面上の線形の事件としてコード化したり、
視覚的に連続的な観念としてコード化するのは
完全に文化的慣習以外のなにものでもなく、
したがって慣習としての限界をもつということである。
・「ギリシャ人の間で最も尊ばれた芸術家は石工でも、
ブロンズ型作りの職人でも、鋳造職人でも、仕上げ職人でもなかった。
彫板師であったのである」
・定住生活が仕事の専門分化を可能にするまで、
視角をますます強調することになった感覚生活の分化はなかったのである。
・「話ことば社会の伝統では神話の語り手は
個人から個人への伝承という形をとらず、
複数の人間から複数の人間へと語りかける形をとる。
物語や詩はすべてのひとに対して語られ歌われるのである」
←『エスキモー』E・S・カーペンター
・もしわれわれが住む世界のすべての面を
単一の感覚のことばに翻訳しつづけてやまない装置が作り出されたとする。
するとそこに現れるのは、首尾一貫し内的統一をもつがために
科学的と呼ばれるのにふさわしい歪曲である。
・ゴシック文字の当時の呼び名を「テクストゥーラ」といったが、
それは「つづれ織り」を意味していた。
・黙読が異例であったことは聖アウグスチヌスが『告白録』のなかで
アンブロシウスの習慣をたいへんに注目すべきものとして挙げているので
それがわかろうというものだ。
・記憶が不完全になったことのさらに根本的な原因は、
印刷の導入とともに視覚が聴覚―触覚連合母体から
さらに完全なかたちで切り離されたということにあろう。
・テキストの注解は「光沢(グロス)」と呼ばれたが、
それはテキストの内側から光を照し出させるという意味
・字義もしくは解釈されるべき「文字」はのちに
テキストを<通して>来る光というよりも、
テキストの<上を>照らす光として考えられるようになった。
それにつれて「視点」つまり、読者が「自分が坐っている場所」という
<固定された>位置からの展望が強調されるようになった。
・テキストの文字の中にすべての意味が含まれていると考えた中世の聖書研究は、
中世の封建制度土地所有の実態と軌を一にしていた
・皮肉なことに、こうした中世の都市や
同業組合ギルドから締め出されたために、
国際貿易にたずさわった脱線職人たちの
ルネッサンス時代におけるナショナリズムの中心部を形成するにいたる
・この新しい「応用知識の時代」は翻訳の時代であった
・法学者たちは王の不滅性を発見したようなものであった。
だがほかならぬこの発見によって彼らは、
現在王位にある人間も死すべき運命にある、
権威者のはかない性格をごまかしようのないほど
悟らされてしまったのである。
←『王の二つの遺体』カントロヴィッチ
・カントロヴィッチによれば、教会を<キリストの肉体>と考える
パウロのきわめて積極的な教会観が、
結果として、古代後期の<法人組織(コーポレーション)>に
哲学的、神学的刺激を与えたという。
・印刷本は史上初の大量生産物であったが、
それと同時にやはり最初の均質にして、反復可能な<商品>でもあった。
活字というばらばらなものを組みあげるこの組み立て工程こそが均質で、
かつ科学実験が〔他社の手によっても〕再現可能なように
再現可能な〔活字を崩しても再びそっくりそのままに組むことができる〕製品を
可能にしたのである。
・すべての経験を単一の感覚尺度に還元してしまう、
もしくは歪めてしまうこのやり方は、傾向的にいって、
活版印刷が人間の感覚のみならず
芸術や科学にもおよぼす影響として規定できるのだ。
・印刷物の読者にとってはまったく自然なものである固定点、
もしくは視点をすえる習慣のために、
15世紀にはいわば<前衛的>だった透視画法も、
その後はごく一般的な態度として広く受け入れられるに至ったのであった。
・そこでグーテンベルク時代の大いなるパラドックス、
すなわち一見活動的といえるものが実は〔本質的には静的であり、ただ〕
映画的な意味で<活動(シネマ)>的であるという
パラドックスが生まれることにある。
・この仕掛けはレオナルド・ダ・ヴィンチの未発表の
ノートのなかに書かれてあった。
晴れた日に一方の壁に針穴を開けただけの暗い部屋に坐ると、
その反対側の壁に木や人や通りすぎる馬車などの外界の映像が映る。
・中世の学者たちが、自分たちの研究している著者たちが
一体なにものであるかという点について無関心であった
・印刷術が私有財産。プライヴァシー、そしてさまざまな形式の
「囲い込み(エンクロージャー)」の手段となってきた
・不思議なことだが、著者であるとか、
偽作の問題にひとびとが関心を持ちはじめるのは、消費者中心の文化なのである
・印刷時代以前の執筆活動はオリジナルな行為というよりも、
モザイクの作製であった。
・多くの中世の著作家たちにとっては、
彼等がどこで「書記」であることをやめ「著者」になるのか、
という点がはなはだあいまいであったろう。
・視覚的に見ても、印刷には写本よりも「はるかに鮮明度」があった。
印刷はいわば筆写(スクリプト)という「冷たい(クール)」媒体によって
幾千年間も仕えられてきた世界のなかに、
たいへん「熱い(ホット)」媒体として登場したのだった。
・印刷という熱い媒体によって、人間ははじめて自分が話している民族語を
文字のかたちで「視る」ことが可能になった
・ブイヤーはその後、中世の信仰表現としての礼拝の歴史が
豪華な視覚的効果をねらうがために、
民衆を礼拝式からしだいに排除する歴史になっていった点に注目する
・思考は一般にいって、ピラミッドの底辺にではなく、
頂点へと集まってしまうのだ。
・グーテンベルクの技術(テクノロジー)とともに発生した
「訓練の転移」のなかでも大量に生じた現象があり、
それがフェーブルやマルタンが『本の出現』のなかで
一貫して強調しているものである。
それは17世紀の末葉にいたる印刷の最初の2世紀というものは、
印刷物のほとんどは中世の写本からのものであった、という点だ。
16、17世紀のひとびとは中世期のひとびとが
眼に触れることができた以上の中世に接したわけである。
・均質性と行揃いの効果はいまだに不安定の域を脱しなかったにせよ、
これこそ当時のひとびとにとってもっとも意味をもつものであり、
新しい偉業であったのだ。
・このデカルトの読者への指示こそ、印刷技術の普及によって
言語や思考に生じた変化を、
もっとも明白なかたちで認めた言葉のひとつであるといえよう。
すなわち、デカルトの時代には、
かつての口語文化はなやかなりし頃の哲学のように、
ひとうひとつの語を検討する必要性は失われていたのである。
いまでは代わって文脈がその仕事を引き受けることになった。
・ハムレットは彼の生きていた世紀の、ごく葛藤を再現していたのだ。
すなわち、さまざまな問題への、古い口語文化のものであった
<場(フィールと)>的接近と、他方では応用された、
もしくは「断固心にきめた」知識という視覚的接近
〔応用知識はすべて対象の切り離しをもって出発点とするから〕
の葛藤を再現していたのだ。
・いかなる種類にせよ<応用>知識を手に入れる鍵は、
複雑な諸関係を一目瞭然な視覚的用語へと翻訳することのなかにある
・中世の封建諸制度は口語文化、および
周辺部のない中心からのみなる自足システムに基礎をおいていた。
この自足構造が、視覚的で数値的な手段によって、
ナショナリズムを背景にした商業活動のシステムに翻訳されたのである。
・「古代の足し算、引き算はすべて左から右へ行われたが、
リュシアン・フェーブルによれば、この習慣は16世紀でもまだ支配的であった。
これが右から左へと行われる速い算法によってとって代わられ始めた」
←『産業文明の文化的基盤』ネフ
・印刷文化は製作者と消費者との分離をつくり出していまった
・無韻詩の発見と、その天下に告示するメガフォンとしての位置づけ
・本が安価になるにつれ、頭の回転のはやい、勤勉な学生たちは、
自分たちよりも前の世代の学生が講義に頼っていたのにたいして、
独力で知識をつけられることを発見した
・彼等はみずからを洗練し、均質化し視覚化した結果、
自己疎外を起し、そのためかえって自然人を求めて
ヘブリディーズ諸島へ、インド諸国へ、南北アメリカへ、
そして超自然的な想像力へ、特に幼児時代へと旅立ったのであった。
・周辺的人間は、ひとりひとり円満な中心部であり、独立的存在を保ち続けている。
彼は封建的であり、「貴族的」であり、口語的なのだ
・印刷文化の結果生まれた都会のブルジョワジーは、
自分のいる場所が中心か周辺かをつねに意識する存在であった。
・活動の目的を遠くに置いて、それに向かって内部指向する姿勢は、
印刷文化、そして印刷文化の一部である透視図法と消滅点とを基点とする
空間構成と切り離しがたい関係にある。
・印刷文化の管理人である学校制度のなかには、
ばんからな個を許容する余地はない。
学校とはたしかに、われわれがまだ分裂するにはいたっていない
子供たちを投げ入れて加工する、均質化のための機械なのだ。
・活字人間は印刷技術文化の構図を身をもって表現するが、
構図自体は読みとることができない。
・民族が印刷をとおして初めて自分をみられるというただそれだけの理由で、
印刷とナショナリズムは価値形成的であり、
たがいに等位であるといえよう
・フランス人の、神秘的ともいえる「理論」への熱狂を生み出したものが、
他の諸機能から切り離され、孤立化した視覚的要素であることは
容易に認められよう。
・「人類の歴史の圧倒的な部分を占める期間において、
個人が帰属し、忠誠心を抱いた集団といえば、
部族、氏族、都市、地方、荘園、職業組合(ギルド)、
領土内で多数の言語が話される帝国であった。
だが近代以降、歴史の前面に出てきたのは、
他のいかなる人間の群居型態にもまさって、
ナショナリズムであったのである」←ヘイズ
・もし最初のジャコバン党員が、彼等の教育論のすべてを
実行に移すのに手間どっていたにしても、
彼等はいちはやく言語の重要性を認識した
・活版印刷の性格が拡張されるとき、それぞれの言語の統制と固定化が発生する。
・中世期にはラテン語辞の書編纂は不可能
←中世の著作者というものは、自分が使用する用語を
自分の思索がおもむくままに、
そのときどきの思想の文脈の変化に応じて
定義するのに吝かではなかったからである。
・人間はことばを所有する生物ではないのだ。
人間がことばそのものなのだ。
・英語の発展は、主語と述語とが文章内のいずれの場所にあっても
意味表現に差し支えないようにしている語形変化を次第に廃して、
固定された語順が文法的機能を司る文構造へと移っていった過程である
・トーマス・スミス卿は
「文字というものは、そもそもたった一つの音だけに
適切であるような性質を本来的にもつものである」と論じている。
この意見こそ、一時に一事という印刷の論理の
犠牲者が抱く見解であったといえよう。
・事物の連続性、そして自己存在の様式の連続性から
すっかり切り離され、孤立した人間の意識は
連続性のない存在へと縮小するよりほかはないのである。
・そのとき存在は存在そのものではなくなり、
ただ「流れや影、そして変化してやまないものの組み合わせ」となってしまう。
「わたしは存在を描くのではなく、経過を描く」とモンテーニュはいっている
・「もはやひとつの瞬間がつぎの瞬間につながっているという根拠は
まったくなくなってしまった。
なにものもこの現在の瞬間とつぎの瞬間との間に
橋が懸けられる可能性を保証しないのだ。
・・・・これこそ不安のうちでその最たるものである。
デカルトはこれを<恐怖>と呼んだ。神へと飛躍する以外に
なんの救済に手段も残されていない。
<時間を手に入れることの失敗>の恐怖であった。」
←ジョルジュ・プーレ
・「幾つかの個別的な原因が同時に作用して単一の結果を生み出す事実、
また単一の原因が複数の結果を生み出す事実を考慮に入れると、
因果関係の図式は線形ではなく、枝分かれした樹状となるばかりか、
お互いの合流もあるので網目状となろう」
←『空間と精神』ホイッタカー卿
・知識を部門別に細分化できるという幻想が、
アルファベットと活字という手段による視覚の切り離しによって、
いかに可能になったか
・印刷はそれがもつ画一性、反復可能性、広い流布範囲によって
すべてのものに生命と名声とを甦らせるのだ。
・画一性と反復可能性によって遂げられる催眠状態は大衆に、
分業による生産性向上の奇蹟、さらには世界市場の創造という奇蹟を
教えたのだった。
・文学ヴィジョンの実体内容は集団的であり神秘的でありながら、
同時に、その表現と伝達方法はきわめて個人的、断片的、
そして機械的だからである。
・「19世紀最大の発明は発明の方法の発明であった。」
←『科学と近代世界』ホワイトヘッド

訳者解説
・マクルーハンが指摘する活版印刷の特色には、
世界を断片の組み合わせとして表現するほか、
断片を順序立てて並べてゆく線形性がある。
これは同時共存を許さず、すべてに優先順位をきめないと気がすまない
近代的人間の闘争性となって現れよう。
また、すでに触れたように、これらの特色がすべて視覚化されている、
という世界の視覚化もマクルーハンが強調するところである。
・死を一切考えず、ただ生きるだけの生、
そして突然闇のなかに落ちていくような形で遭遇しなければならない死、
というはてしない恐怖を味わわなければならないようになった。
ただ生の価値だけを強調する商業的ヒューマニストの自己欺瞞の犠牲者、
それに対し怒ることすら忘れた犠牲者とわれわれはなりはてたのだ。
・「無意識」は深層心理における意識であり、
深層心理の存在は人間にとって自然な状態ではなく、
人間の神経機能の一部が抑圧されると生じる、とマクルーハンは説く。
そして一部の精神機能の抑圧は、
いずれかひとつの機能が異常に強調されたために発生する。
文字文化、とくに印刷文化は人間の視覚の役割を異常なまでに高めた。
そのため他の諸機関、触覚や聴覚が不当な抑圧をうけるにいたった。
そのとき諸感覚の均衡は失われ、五感の均衡比率(ratio)に基盤をおく
理性(rationality)もあやしくなる。

 

 

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