『職業としての学問』 マックス・ウェーバー 著 尾高邦雄 訳 1980年刊(改訳) 岩波文庫

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職業としての学問
マックス・ウェーバー 著 尾高邦雄 訳
1980年刊(改訳) 岩波文庫

 
ウェーバーが1919年にドイツの若者たちに向けて行った講演の記録。
第一次大戦の敗北で著しく疲弊し、それまでの価値観が崩壊したドイツ国民を
ヴェルサイユ条約による制裁が押し潰してしまわんとする刹那に、
スーパー頑固おやじウェーバーの講演は火を噴くような激しさであったようだ。
理を通して話しているが、気持ちは<浮足立つな!落ち着け>である。
しかし怒られようが怒鳴られようが説得を試みられようが、
戦争を止められず、敗戦で悲惨な現状をつくったのは、
そのおやじたちなのであるのだから、
残念ながらどんな熱弁も空しく響いたかもしれない。

 

 

以下、本文より・・・

・こんにち、ドイツの医学や自然科学系統の研究所の大きなものは、
すべて「国家資本主義的」事業である。
・すべての事柄は原則上予測によって意のままになるということ、
―このことを知っている、あるいは信じているというのが、
主知化しまた合理化しているということの意味なのである。
・このことは魔法からの世界開放(エントツアウベルンク・デア・ウエルト)
ということにほかならない。
・自然科学者のなかに往々いる大きな子供
・これらの学問をおのれの「天職」とする以上は、
―「学問それみずからのために」知るに値するという意味なのである。
・一般に自然科学は、もし人生を技術的に支配したいと思うならば
われわれはどうすべきであるか、という問いにたいしてはわれわれに答えてくれる。
しかし、そもそもそれが技術的に支配されるべきかどうか、
またそのことをわれわれが欲するかどうか、ということ、
さらにまたそうすることがなにか特別の意義をもつかどうかということ、
―こうしたことについてはなんらの解決も与えず、
あるいはむしろこれをその当然の前提とするのである。
・こんにち世界に存在するさまざまの価値秩序は、
たがいに解きがたい争いのなかにあり、
このゆえに個々の立場をそれぞれ学問上支持することは
それ自身無意味なことだからである。
・神学では、信者らは例のアウグスチヌスの
「不合理なるがゆえに我は信ず」という句に相当するような
境地に到達するのである。

・ウェーバーが強調している仕事(職業、ザッヘ)への献身の必要ということ
―個性も自我も没却して仕事(ザッヘ)に献身することが、
その仕事の達成を通じて永遠の個性にある自我を生かす道であるということ
←訳者あとがき

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