『1940年体制(増補版)―さらば戦時経済』 野口悠紀雄 著 2010年刊 東洋経済新報社

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1940年体制(増補版)―さらば戦時経済
野口悠紀雄 著
2010年刊 東洋経済新報社

 

軍と政治家と官僚が三つ巴で争い、そこに財界や右翼も加わって
てんやわんやになりながら、それでも戦争には負けるわけにはいかないので
そのために総力戦体制が組み立てられていく戦時期。

それぞれの勢力の思惑はとんでもなくバラバラで
裏切り、暗殺、テロ、謀議を繰り返しているのに
それでも産業技術は生産効率という指標一つに集約されて飛躍する。
生産が効率的な軍需品に特化されると、
日用品も食料品も娯楽もなくなって、
消費市場のない生産だけの世界が現れる。

みんな等しく貧しくなり、

日本はひとつの究極の軍需工場になった。


お金が無くて貧しかったのではない。
ご婦人もお子様も総出で働かなければならないくらい人手不足で
忙しかったのであるが、
所得は貯蓄に回され、それが再び軍需工場にだけ投資され続けて、
買うものがなかったのである。
敗戦後には軍は解体、政治家は追放、財閥も押さえつけられて、
官僚と総力戦体制は生残り日本の社会に深く根を張った。
作るものは変わったがシステムは究極の軍需工場のままであった。
それは国民皆保険や年功序列や銀行貯金や下請けといった
おなじみの制度とともに整然と行進し
等しく貧しかった人々は平等な中産階級になった。

と、そこまでなら苦難を乗り越えたハッピーエンドだが、
物語は幸せな高度成長期を過ぎ、バブル期も停滞期も過ぎて、
平等に高齢化して、人口減少の格差社会に突入している。
1940年と比べると人口ピラミッドもひっくり返っていて、
1940年体制はあまりに遠い昔話なのだが、
次に名付けられるほどの未来の体制には
まだ至ってない。

以下、本文より・・・

旧版 まえがき

日比谷公園を市政会館の側から出ると、
西に向かって広い道路が延びている。
ゆるやかな昇り坂に続くこの街路は、
多分、日本で最も魅力的な道の一つだろう。
初夏の夕暮れにここを歩いていると、
さまざまのロマンチックな思いが浮かんでくる。
しかし、そうした瞑想は、暫く歩いたところで
突然絶ち切られる。

巨大な軍艦が陸にのり上げたようにうずくまる
無骨で陰気な建物が、道の左手に不愛想に現れるからだ。
・不愛想な印象には、理由がある。
それは、戦時中の建築物だからである。
実際、この建物は、中国遼寧省大連にある
旧関東州庁舎の建物(現大連市人民政府庁舎)によく似ている。

この住人達は、ここで市街戦が展開されると考えていたようだ。
周囲が廃墟と化しても、ここに立てこもって
抵抗するつもりだったのかもしれない。
―ベルリンの国会議事堂が実際にそうなったように。
その証拠に、この建物の屋上は、
その重さに建物自体が耐えかねるほどの
厚い焼夷弾避けで覆われていたし、
地下には、本土決戦に備えた会議室が作られていた。

 

 

(財務省 2017年9月撮影)

 

第1章 われらが出生の秘密

・(乗用車の分野で)状態が変わったのは、満州事変以後である。
豊田自動織機が国産車生産に乗り出し、鮎川義介が日産自動車を作った。
・日立は1930年代に総合電機メーカーとして登場した。
東芝も、1939年の合併後総合電機メーカーとなった。
・内務省が中心となって進めた「一県一紙主義」によって、
1939年に848紙を数えた日刊新聞は、42年には
54紙にまで減少した
・戦時経済体制に向けての諸改革は、1940年前後に集中
←総力戦を戦うための準備
・1938年に「国家総動員法」が作られ、それに基づいて、
配当が制限され、また株主の権利が制約されて、
従業員中心の組織に作り替えられた。
←従業員の共同体としての企業
・戦時経済期にそれまでの藤堂組合が解散され、
労使双方が参加して組織された企業ごとの
「産業報国会」に見いだすことができる。
・日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、
軍需産業の増産のため緊急措置として導入された
・1930年ごろまでの日本の金融システムは、
直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた
←資源を軍需産業に傾斜配分させるために間接金融に移行
・1940年の税制改革で、
世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。
所得税そのものは以前からあったが、
これによって給与所得の完全な補足が可能になった。
また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。
さらに、税財源が中央集中化され、
それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された
・経済的・社会的弱者に対する保護制度が、
社会政策的な観点から導入されたこ
・(借地法・借家法 1941年は)より深いレベルで、
戦後日本社会の基本的な性格を規定したのである。
第一に、地主がいない社会、大衆社会を作った。
・第二に、大多数の世帯が不動産の所有者である状況を作り出し、
政治的な保守性と現状維持指向の基本的条件を作った
・戦後社会の基本的な性格付けは、戦時経済体制の中で準備された
・「終戦時点で日本社会の形成的理念には大転換があった反面、
経済政策―特に金融統制のための制度的基盤―は
戦時経済体制がほぼそのまま温存された」と指摘し、
「高度成長を支えた経済体制は、
基本的に戦時総力戦体制の継続であった」
←榊原英資・野口悠紀雄「大蔵省・日銀王朝の分析」1977
・戦後改革に対する「逆コース」として復活したのではなく、
戦時期から底流として継続していたのである。
・「オール月給化」は1938年頃からの新しい制度であること、
これが従業員のモラル向上に大きく寄与した

 

第2章 40年体制の確立(1)
―企業と金融

・配当性向は非常に高く、
企業は、獲得した利益の大部分を直ちに株主に分配していた。
この傾向はとくに非財閥企業について顕著であった。
・「我国労働者の最大欠点は何んと云っても
同一工場に勤務して居る期間の短いことで
之が為我工業上に蒙りつつある損失は決して少なくないのである」
←大正年間の大阪市『労働調査報告』
・初任給から昇給額までが政府によって決定
←1939年 賃金統制
・1937年に労働争議が一挙に前年の7倍になったことは、
政府に大きな衝撃を与えた
・従業員を企業の正規メンバーとして位置づけるという、
新しい企業理念があった。
従来は職員と職工の身分差が非常に大きかったため、
両者を職員として一括すること自体が、大きな変化であった。
・戦時期の増産に対応するための緊急措置として
下請方式を採用するようになった
・1931年において、フローベースの産業資金供給の
実に87%が直接金融である。
戦後の姿に比べると、きわめて対照的といえる
・この戦時金融体制のなかで注目に値するのは、
日本興業銀行に与えられた強大な権限である。
「臨時資金調整法」により、興銀債の発行限度が
「興銀法」の規定の5億円の他に新たに5億円追加され、
その元利支払いが政府によって保証されて資金量が拡大した
・1940年に発足した第二次近衛内閣は、
「新経済体制」の一環として、金融統制の強化をめざした。
企業が利潤を追求するのは株式で資金を調達するからであり、
これにかわる資金調達手段があれば、
利潤追求がなくなるだろうという考え
・間接金融の優位性は、それ以降、現在に至るまで続いている。
都市銀行はオーバーローンとなって日銀に依存する体質となった。
これは、戦後長く続いた資金循環構造である。
全国金融統制会による金融統制の中心となったのは、
日本銀行である
・1945年末には、実に61行にまで激減(都市銀行8 地方銀行53)
←1935年の普通銀行は466行

 

第3章 40年体制の確立(2)
―官僚体制

・事業経営を許可制とし、事業計画も許可制とする。
これらを通じて、企業は政府の監督や統制を受け、
また、設備の拡張、生産計画の変更などの命令も受けることになる。
他方では、税制上の特典、助成金、資金調達上の優遇措置などの
保護助成が与えられる。
また、命令によって生じた損失に対しては、
補償が与えられることとされた
←37年から41年の産業別事業法(製鉄事業法、造船事業法など)
・非営利の特殊法人であって政府の指導監督に服する「営団」
・革新官僚が活動する場は、1937年に設立された内閣企画院であった。
・「いままでは法律立案運用解釈の
コンサヴァティヴ・エンジニアであったが、
これからはクリエーティヴ・エンジニアでなければならぬ」
←革新官僚 毛利英於兎
・「そこに描かれた国家像が、明治以降の日本国家のそれと
かけはなれた合理性をおび、創造的(=戦闘的)目的のために
高度に組織化されたメカニズムとしてあらわれることは明らかである」
←橋川文三「革新官僚」(『権力の思想』)1965
・「所有と経営の分離」、「適正利潤」の立場に立つ
企画院の調査官の国家主義的傾向が、
共産党の目的達成を容易にするものであるとして
「治安維持法」によって逮捕され、検挙された
←1940年6月「企画院事件」、45年9月無罪
・小林一三商工相が岸信介次官と対立
・新体制運動の中核体として、「大政翼賛会」が発足した。
しかし、地方行政の主導権を主張する内務官僚、既成政党の主流、
軍部、右翼などに妨げられて政治指導の一元化に失敗し、
大政翼賛会は精神的色彩の強い組織以上のものにはなりえなかった。
←1940年10月 近衛内閣
・企画院の思想は、
「結局我経済界ヲ破壊シ我国ヲシテ露西亜タラシメントスルモノナリ」
←財界からの反発
・所得税を基幹税とし、財産税を補完税とし、
さらに一般売上税をも導入するという税体系の樹立
←広田内閣の馬場鍈一蔵相が1937年の税制改革案。不成立
・1940年の税制改正でとくに重要なのは、
戦費調達のために導入された給与所得の源泉徴収制度である。
・1938年の「国民健康保険法」、39年の「職員健康保険法」などにより
適用対象が拡大され、ほぼ全国民を対象とするものとなった

 

第4章 40年体制の確立(3)
―土地改革

・1941年においてさえ、全都市における住宅総数348万戸のうち、
持ち家は76万戸にすぎず、借家が260万戸となっていた
・第一次大戦終了後の経済発展のなかで、
地主階級に対する振興の産業家階級の勢力増大という意味があった。
「借地法」の制定は、社会政策的な意味をもつものではなかった
・地主ではなく政府に米を供出し、
その代金を地主に払えばよいこととされた。
こうして、小作人は直接に政府から収入を得られるようになり、
小作料が事実上、金納制に変わった
←食糧管理制度
・この制度のもともとのねらいは、小作農の負担を軽くして、
彼らの増産意欲を高めることにあった。
しかし、この措置は、結果的に江戸時代から続いてきた
地主・小作の関係を大きく変化させることになった

 

第5章 終戦時における連続性
―戦後改革とその評価

・47年1月に、「改正公職追放令」が施行された。
これが、第二次公職追放であり、全国で21万人が追放された。
戦争犯罪人、軍人などを対象にした前年の公職追放に続き、
この時の対象は民間企業の経営陣にまで広がった。
追放者は、経済界だけでも財閥系を中心に約2000人に及んだ。
・労働組合の結成、組織人員の推移をみると、
45年12月には509組合、38万人にすぎなかったものが、
46年6月には1万2000組合、368万人へと急激な膨張を示した
←45年 労働組合法
・小作地のほぼ8割にあたる193万町歩が開放された
←農地改革
・「戦後改革」によって、日本経済の仕組みは、
大きく変わったはずである。
しかし、官僚制度は、とりわけ経済官庁の機構は、
占領軍による「大改革」にもかかわらず、
ほぼ無傷のままで生き残った。
・消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、
殆どそのままの形で残った
公職追放21万人のうち、軍以外の官僚はわずかに2000人前後、
それも内務省が殆どで、大蔵省にいたっては総数9名にすぎない。
・官僚機構が無傷で生き残った第一の理由は、占領軍が直接軍制ではなく、
日本政府を介して行う間接統治方式をとったことにある。
・「第二次大戦が突然終了したために、
日本占領後の経済計画ができあがっていなかった」
←カルダー『戦略的資本主義』1993
・「もともとアメリカは日本人に『解放』をもたらすために
日本を占領したわけではない。
旧体制の破壊も資本主義体制そのものの変革を目的としたものではなく、
目的は武装解除、潜在的戦争能力の除去であり、
それによって日本が再びアメリカを
おびやかすことのないようにすることであった。」
←山本満「占領」(現代日本経済史)1976
・アメリカ側が日本の官僚制度に関する十分な知識を
もっといなかったために、問題の本質を把握できなかった
・占領軍が日本に進駐する前から、それが行われていた。
終戦のわずか10日後に、当時の軍需省次官であった椎名悦三郎が
部下に命じて、一晩の間に軍需省を解体して商工省を復活させた
・太平洋戦争中の占領地統治の体験から、
軍票の使用によるインフレーションの激化を最も恐れていた。
このため、すでに8月23日、
外務省は大蔵省の要請で使用通貨問題に関する占領銀の方針を
問い合わせる電報をマニラに打電している
・通貨の二本立てによる混乱は回避された
・司令部内で意見がわかれていたのに対し大蔵省は一体だった
・金融機関が「集中排除法」の適用を免れた

 

第6章 高度成長と40年体制(1)
―企業と金融

・俗人給と企業別労働組合のため、
経済の構造変化や技術革新によって特定の仕事が不要になっても、
企業内での職種転換による柔軟な対応が可能であった。
・間接金融方式の下での資金の流れは、
金融市場における統制によって強くコントロールされた。
これによって、産業構造と経済成長のパターンが影響されたと考えられる。
具体的には、第一に、人為的低金利政策によって信用割り当てを行い、
基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分したこと、
第二に、「金融鎖国」体制をしいて資金の国際的な流れを
シャット・アウトしたこと、があげられる
・金融機関の間には、長期信用銀行・都市銀行を頂点とし、
地方銀行・相互銀行・信用金庫・信用組合とつらなる
整然たる秩序が形成されることとなった
・さらに「外国為替管理法」によって、
日本の金融は海外から遮断された。
円転換規制による国内金融の国際金融からの完全な隔離は、
資本の外国への逃避を不可能にしたばかりでなく、
産業資本の外国での資金調達をきわめて困難にし、
金融コントロールを容易にした。金融統制の背景は、
このような「金融鎖国体制」があった。
・もし自由化が早期に行われていたとすれば、
発展途上国の一部にみられるように
資本の海外逃避が起こり、貯蓄が国内資本の貯蓄に
向かわなかった可能性も十分にある
・国内金融が完全な自由市場メカニズムが
動いていたとすれば、
資本が絶対的に少なく、労働が過剰であった
戦後日本のような経済にあっては、
資本は労働集約産業に集中し、
重工業化は容易に進まなかった可能性が強い。
さらに、不動産等への資本の不胎化を生み、
生産的資本の蓄積が進まなかった可能性もある。
・金融コントロールによって、
はじめて資本集約的戦略産業への重点的資金配分が可能になり、
戦後日本の高度成長の柱となった重化学工業化が
可能となったと考えられる。
・年功序列賃金というのは、
(最初に低い賃金で我慢して、後でそれを取り戻すという意味で)
ネズミ講と同じ原理
←日本型経営の企業は、成長を余儀なくされる
・企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものになる。
このためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、
また、有利でもある。
こうして、日本型経営システムと間接金融は、
密接に結びつくことになる。

 

第7章 高度成長と40年体制(2)
―摩擦調整

・輸出制限や参入規制、価格規制などによって、
低生産性セクターを競争の圧力から守った。
さらに、さまざまな補助金、政策金融措置、
税制上の措置などによって、
高生産性セクターからの所得移転を行った。
・大都市圏の企業に対する法人税と
都市勤労者に対する所得税を国が徴収し、
これを地方に配分するという地域間移動
・政治家は、高度成長メカニズムの主役ではなく、
高度成長から除外された
後進セクターの調整を行うフィクサーであり、傍役であった。
・社会の基本目標について相争うという意味での「政治」は、
そもそも存在しなかった。
・本来は高層化すべき便利な土地が借地で
固定化されてしまっているために、
止むをえず遠隔地にマンションが建設されている
・自作農創設は、1955年頃までは
農業生産性の向上に寄与したものの、
それ以降の時期は、むしろ農地の流動化を阻害し、
規模拡大を妨げることによって、生産性向上の障害になった。
・地主階級の不在は現在の日本人にとって
あまりに当然のことなので、意識されることが少ない。
しかし、これは、現代日本社会の本質的な側面の一つである。
・戦後の日本社会で、「産業化」がなんの反対もなく
国民的な目的となりえた基本的背景は、
地主階級が社会的影響力を持たなかったことだと考えられる。
また、所得格差の小さい大衆社会が実現した原因も、ここに見いだせる。

 

第8章 40年体制の基本的理念

・40年体制の特徴として第一にあげられるのは、
「生産者優先主義」である。つまり、
生産力の増強がすべてに優先すべきであり、
それが実現されればさまざまな問題が
解決されるという考えである。
・「個人貯蓄」欄は、家計貯蓄率の推移を示したものである。
これを見ると、40年体制の導入に伴って、
顕著な変化が見られる。すなわち1930年には6%でしかなく、
30年代前半までは10%程度しかなかった貯蓄率が、
35年頃から急速に高まり、38年には20%を超えている。
そして、41年には30%を超え、
戦争末期には実に40%近くにまで達している。
・40年体制の第二の特徴は、「競争の否定」
・単一の目的のために国民が協働することを目的としている。
このため、チームワークと成果の平等配分が重視され、
競争は否定される傾向にある。
・全体として、大きな社会保障システムになっている
・「生産者第一主義」と同様、「競争否定・平等主義」も、
ある種の価値観にまでなった。これは戦後むしろ強化された。
・外国人記者と経済企画庁長官との懇談の席で
「共生」の意味が問題となり、「競争をしないという意味なら、
日本のメーカーが協力して消費者を犠牲にすることではないか」
との意見が外国人記者からあった
・経済体制の基本にかかわる問題が、
考えぬかれた信念としてではなく
きわめて情緒的なレベルで語られている。

 

第9章 変化した環境・変わらぬ体制

・1973年は「福祉元年」といわれたほど、
さまざまな社会保障制度が拡充された。
・1973年の石油危機である。
これによって日本経済は深刻な打撃を受け、
再び全国民が一丸となった総力戦を戦わざるを得なくなった。

 

第10章 未来に向けての選択

・「総与党化現象」は、政治の自殺である。
これは、大政翼賛会の復活にほかならない。
政治面での55年体制の崩壊は、
新しい体制を生み出したのではなく、
40年体制への逆戻りをもたらしてしまった。
・社会党にとって、消費税問題は、
政府を攻撃する手段にすぎず、
政策の目標ではなかったのである。
・現在の日本では、政治的な選択の可能性が
なくなってしまったからである。
すべての政党が政権党としての政策しか主張しないから、
選挙における選択肢は、事実上消滅したに等しい。
・推定年次だけを単純に2025年に延長すると、
自然増収に頼らずに収支をバランスさせるには、
税率を15~16%に引き上げることが必要。
・客観的条件に関していえば、
いまや将来への見通しは透明になったと思う。
不透明なのは、われわれ自身が
いかなる未来を選択するかという意志である。
・未来の構想こそ重要である。それなくしては、
「戦後50年の回顧」は、単なる追憶に終わってしまうだろう。

 

第11章 経済危機後の1940年体制

・74年の消費者物価上昇率は、実に23%に達した。
・戦時経済体制を引き継いだ日本では、
労働組合が企業ごとに作られており、
企業別賃金交渉を基礎にして賃金を決めるという仕組みが定着していた。
しかも、「労働者も経営者も同じ企業の構成員」という
家族的企業観が一般的であった。
・40年体制金融制度の代表であった長期信用銀行が消滅
・日本の一人当たりGDP(国内総生産)は、
90年代の初めには主要国中でトップだったが、
09年には17位にまで落ち込んだ
・中国が工業化した世界において
製造業中心の産業体系を維持しようとすれば、
「賃金などの要素価格が貿易を行う国で均等化する」
という「要素価格均等化定理」が働き、賃金は停滞、
あるいは下落せざるをえないのだ。
・大量生産の製造業において重要なのは、
新しいものの創造ではなく、規律である。
・産業革命によって始まった経済活動
(機械を用いる工場制度)が行き着いた究極的な姿
・90年代以降の情報技術の変化は、
このパラダイムを根本から変革した。
分散型情報システムが進歩すると、
分権型経済システムの優位性が高まる。
したがって、計画経済に対して市場経済の優位性が増し、
大組織に対して小組織の優位性が高まる
・経団連は、戦時期に企業を統制するための産業ごとに作られた
「統制会」の上部団体が1945年に名称を変えたものである
・企業の基本構造は、資金調達法によって決まる
・岸が「アカ」と糾弾されたことは、
現在の日本人には、理解しがたい。
戦後の日本で岸信介といえば、「保守反動政治家」の
代表選手のように思われているからだ。
これは、日本人の考えが戦時期を経て、
まったく変わったことを示している
・日本の製造業は減退する国内需要を補う手段とし
て外需を求めたが、金融緩和と円安政策がそれを助けた。
03年ごろに行われた空前の為替介入は、その象徴である。
・世界経済の構造が激変するなかで、
日本の古いタイプの産業構造が
金融緩和・円安政策に助けられて生き延びた。
ここにこそ、現在の日本経済が抱えるすべての問題の根源がある。

 


 

 

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