『キリスト者の自由 他』 マルティン・ルター 著 石原謙 訳  1955年刊 岩波文庫

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キリスト者の自由3

 

『キリスト者の自由 他』
マルティン・ルター 著 石原謙 訳
1955年刊 岩波文庫

 

ここに書かれている抽象的で格調高い宣言に
当時の民衆が共感したとは思えない。

「見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と誡めとから
自由ならしめるところの・・・」と迫られても
多くの人びとは<なに、それ。まじ、ひくわ~>
であったのではないだろうか。
ルターを支持した領主たちも
<教皇権否定。それウケる~
でも、逆らったらコロす。>
くらいのことだったのだろう。
俗世の論理には神の入り込む隙間などないのである。

少なくともここ500年、この世に神がいたことなどない。
宗教改革で純化され、愛と義しか受け付けなくなった神は、
天上のクリーンルームから降りてくることができなくなった。
ちょっとでもそこから出たら
500年前と同じようにご利益の空手形にされて、
永遠に叶わない希望としてリツイートされ続けることになるだろう。

キリスト者の自由1

 

 

以下、本文より・・・

・たましいの面から見ればキリスト者は霊的な新しい内的な人間と呼ばれるし、
血肉の面から見れば身体的な古い外的な人といわれる。
・身体が束縛されない強壮且つ健康であり、
思うままに食らい飲み生活したところで、
そのことがたましいに何を益するだろうか。
反対にまた身体がその意に反して束縛され、
病み疲れ、飢え渇き、悩み苦しんでいるとしても、
このことがたましいに何の損失をもたらすであろうか。
・すなわちたましいは神の言以外のあらゆるものを欠くことはできるが、
神の言なしには他の何をもってしてもその代わりにはならない。
しかしたましいがもし神の言をもつなら、
もはや他の何ものをも必要としない。
・言とキリストをよく自己のうちに形成し、
この信仰を不断に鍛錬し且つ強からしめることが、
当然すべてのキリスト者のつとむべき
ただ一つの行いであり修業でなければならない。
・ただ神の言と信仰のみがたましいのうちに支配するからである。
あたかも鉄が火に投げ込まれた焔と一つになって赤熱するのと同じように、
たましいも言の有するものを言から受けとる。
・もし彼が愚かにも、善行によって義とされ自由になり祝福を受けようとし、
すなわちキリスト者になろうと思うなら、
あたかも一塊の肉片を口に咬えながら水中に映った自分の影に飛びついて、
肉と影とをともに失ったあの犬のように、
彼はすべてのものと共に恐らく信仰をも失うであろう。
・キリストがわたしのためになりたもうたように、
わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。
・これはただ信仰のみのなしうるところなのである。
・「たとい暴君たちが不当にもかかる要求をなすとしても、
それが神に逆らうものでない限り、
わたしに対して何の損失だとも考えないのである」
・キリスト教的な人間は自分自身においてではなく
キリストと彼の隣人とにおいて、
すなわちキリストにおいては信仰を通して、
隣人においては愛を通して生活する。
・彼は信仰によって、高く己を超えて神へと昇り、
神から愛によって再び己の下に降り、
しかも常に神と神的な愛とのうちにとどまる。
・見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と誡めとから
自由ならしめるところの、
真の霊的なキリスト教的な自由であり、
あたかも天が高く地を超えているように、
高くあらゆる他の自由にまさっている自由なのである。
神よ、われわれをしてこの自由を正しく理解し
且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。

 


 

 

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