『赤ちゃんの歴史』 入来典 著  2000年刊 鳥影社

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赤ちゃんの歴史2

 

『赤ちゃんの歴史』
入来典 著
2000年刊 鳥影社

 

16~18世紀を中心にヨーロッパと日本の
赤ちゃんについて書かれたものである。
出産から新生児、乳幼児の扱われ方、
未熟児や奇形児の問題まで取り上げられている。

出産の問題は同時に女性の社会的地位の問題でもある。
生まれてくるときは間引きの対象となり
生まれれば売られる対象となり
産むようになれば命の危険にさらされ
場合によっては見世物にもされ
産ませる産婆は魔女として処刑される
というのがかつての女性の生であった。
今でも地球上のかなりの地域で
それと同じようなことが続いている。

どうして出産という重要な役目を担ってきた女性の立場が、
地球上のあらゆる地域でほとんど普遍的に弱いのか、
あるいは弱くなってしまったのか。
おそらく<女性の交換>と深くかかわるのであろうこの問題は、
解くには大き過ぎる人類史の謎のひとつであるように思う。

 


以下、本文より・・・

・キリスト教の教えは、エヴァの犯した罪の報いとして
女性はこの苦痛を神の律法として完全に受容すべきものと考え、
積極的方法を用いてこの痛みを免れることを許さなかった。
・1847年、エーテル、クロロフォルムを使っての
無痛分娩が行われ、1852年のヴィクトリア女王の出産のときにも
クロロフォルムが使用された。
・出産ショーは、王族や貴族社会ではその性格がさらに強く、
とくに王家の子どもの誕生は公開されていたようだ。
王位を継承すべき王子の出生には王朝の将来がかかっているので、
王妃の羞恥心よりも王子誕生の喜びを国民皆で分かちあうべきなのである。
・時には料理用のナイフで胎児の頭を破砕する方法
・16世紀のロンドン、ニューイングランドでの
母親の出産死は2%を超えていた。
17,18世紀ヨーロッパの支配階級でも、
生殖年齢中に死んだ女性の4人に1人は出産中の死亡だったという。
・産科鉗子は16世紀末か17世紀初め頃、
アイルランドのピーター・チェンバレンが発明し、
長いことその一家の秘密となっていた。
・生きている夫人への帝王切開第一号は、1500年にスイスのある町で
家畜の去勢師ジャック・ヌクェルによって施行された
・1618年から1648年までの30年間に、
ドイツのケルンでは殆どすべての産婆が魔女として処刑された
・魔女狩りは16世紀から17世紀にかけてピークを迎え、
これが伝承的出産介助への脱却の第一歩となったという見方もある。
・16世紀には中条流の産科が隆盛をきわめた
・天保4年(1833)『産婆必研(とりあげばば心得草)』平野重誠
←日本最古の助産マニュアル
・デュ・クウドレ夫人の出産用人体模型(18世紀)
・出産直後の新生児の頭は、産瘤、頭血腫、骨縫合などのために
変形して歪になっている。これを丸く恰好のいい形にするべく
頭のマッサージ、というよりは捏ねくり回すのも産婆の大事な仕事であった
・ヨーロッパにおける産湯の習慣は徐々に廃れていく。
現在でも出産直後の沐浴はしないのが普通
・スウォリングは古代エジプトから19世紀まで
広い範囲で広い階層にわたって行われていたが、
このようにがんじがらめされて乳児はそのままどこにでも放置されたり、
壁の釘に掛けられて窒息寸前のことも多かった。
・わが国では、胎盤を細かく切って母親に食べさせると
母乳の出がよくなると言われ、今世紀初め頃までこの風習は残っていたらしい
・仮死で生まれた新生児を積極的に救おうという意思が
現れて来たのは17世紀の後半からである。
・古代信仰によると胎児の体がほぼ完成するのは七カ月で、
八カ月に入ると体温が下がって水分が奪われ、
体が委縮して生きて生まれても生存は難しく、多くは死産となる。
・未熟児として生まれた新生児には
「よく煮えていない」とか「薪が足りていない」といった表現
・1835年、浴槽型の保育器
ぺテルスブルグのフォン・ルーエル
・1891年、フランスで保育器→日本にも輸出
・ルイ13世の跡目を継いだルイ14世は、
王位を脅かすかもしれない双生児の同胞の出現を怖れ、
鉄仮面を被せて幽閉するという物語ができあがる。
・江戸時代には、男女の双生児は
心中者の生まれ変わりと考えらえていたので、
本来ならゆくゆく夫婦にしてやらねばならないところであるが、
そうすれば近親婚になるという理由から
その殆どが間引きされたという。
・洗礼を受ける前の新生児に授乳すると、
産婦を死から護る何かが乳汁とともに吸い取られてしまうという言い伝え
・母乳を飲ませない母親はその乳汁が体内に逆流して濃度を増し、
酸化し、それが全身を犯す毒となって苦しむ
・「外傷をもたらすにせよ、そうでないにせよ、離乳は人間の心の中に、
それが遮断する生物学的関係の変わらぬ傷跡を残す」
←ジャック・ラカン
・17世紀、パリの医師が入院している乳児100人に
牛乳栄養を試みたが、90人近くが死んだ
・パスツールの殺菌法発見以降→ドライミルク、エバミルク(1890年頃)
→牛乳栄養児の死亡率は母乳の4~5倍と高いまま(20世紀初頭)
・1668年から1737年までのフランス全土の乳児死亡は、
出生1000について270から280といわれ、
4人に1人は初めての誕生日を迎え得なかった。
15歳まで達した者は、半数に過ぎなかった。
・江戸時代、生後1年以内の死亡は出生数のほぼ30ないし40%
・施設に収容されてからの子どもの死亡率もきわめて高く、
イタリアにおける1865年からの10年間の死亡率は、90%にも達した。
・4世紀までのギリシア、ローマでは、とくに子殺しは禁止されていなかった。
大人が自分の子どもをどう扱おうと勝手とされていた。
わが子が弱く、異常な姿で生まれれば水に沈めてしまう。
理性ある心が害ある者と健全なる者を分かつのだと、
ローマの哲学者セネカは言っている。
・中世イングランドにおける1250年から1358年の間の
男女比は、ジョーサイア・ラッセルによると130対100であった。
・嬰児殺しが犯罪と見られるようになったのは、
コンスタンティヌス帝の治下318年からである。
・18世紀初頭、享保年間をピークとして人口が漸減し、
一向回復の兆しが見られなかったのは間引きにその原因
・胎児を始末することを「水になす」といい、その子を「水子」という。
・フランソワ1世の王妃クロード・ド・フランスは
マリー・グレイユという女性の小人を、
カトリーヌ・ド・メディシスも女性の小人を常に侍らしていた。
アンリ2世が小人ブリュスケを寵愛していたことは有名であり、
ロシアのニコライ2世もまた小人に囲まれて生活していた。
・享保年間、身長70cmで頭が全身の半分に達する水頭症の佐汰郎
→見世物→旗本に買い取られ→(不具)→福助
・わが国における奇形児の見世物の起源は、宝徳元年(1449)、
京都の清水に小屋がけした八百比丘尼に始まるという。
八百比丘尼は幼少の頃、人魚を食べたために死ぬことが
できなくなって80歳まで生きたというが、
白皮症(白子)であったという説もある。
・元禄時代に見世物は全盛時代を迎えた。
・虱は蛭と同じく悪い体液を吸いとる虫と見做し、
むしろ子どもの病気を予防する虫と考えた
・子ども用玩具産業として操業していたのは、19世紀以前はドイツだけであった。
どくに女児に好まれる人形は、19世紀中頃まではドイツが中心であったが、
1855年のパリ万国博覧会に出品された日本の市松人形は、
ヨーロッパ人形製造者の企業理念を変えさせた。

 

 

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