『今こそ読みたいマクルーハン』 小林啓倫 著 2013年刊 マイナビ出版

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『今こそ読みたいマクルーハン』
小林啓倫 著
2013年刊 マイナビ出版

 

この本の出版元であるマイナビ出版(毎日コミュケーションズ)は、
パソコン全盛の頃にはわかりやすく上質なソフトの入門書を多く出版し
好評を得ていた会社である。
現在は電子化の大衆化やネットワーク化が猛スピードで進展し過ぎて
オーソドックスな入門書の出番は少なくなってしまった。
そこで従来の顧客層であるビジネスの分野を中心に
新書をラインナップするようになった。
この本もその流れの中の一冊である。
マクルーハンはビジネスや自己啓発や儲け話に
直接関係する人ではないが、
企業と関係しながら議論を発展させて面も持っていて、
SNSなどの新しいメディアの登場を予言しているようなところもあるので、
やや無理矢理ではあるがビジネス向けの新書に入れられている。
そんなことなのでこの本も
マクルーハンを通して現代のメディア状況を考えるというレベルではなく、
マクルーハンを通して現代の表層を少しなぞる程度の内容である。
しかし入門書としてはこれくらいの方がわかりやすいだろうし、
これくらいの情報があれば知的議論の十分な土台になるだろう。

 

 

以下、本文より・・・

・自由な社会の象徴とも言うべき出来事が、
1538年に行われた「世界初のコーランの出版」です。
印刷業に携わっていたアレッサンドロ・パガニーニという人物が、
広大なアラブ世界という市場にビジネスチャンスを見て、
アラビア語の活字を作ってコーランを印刷することに取り組んだ
・当時のイスラム教徒は、印刷技術を価値の低いものと考えていて、
逆に手描きによる書体を崇高な芸術として捉えていた
・われわれの文化は統制の手段として
あらゆるものを分割し区分することに長らく慣らされている。
だから、操作上および実用上の事実として
「メディアはメッセージである」などと言われるのは、
ときにちょっとしたショックになる。
このことは、ただ、こう言っているにすぎない。

いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、
それが個人および社会に及ぼす結果というものは、
われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によって
われわれの世界に導入される新しい尺度に起因する、ということだ。
・「メディア」「人間身体の拡張」「技術」の3つを
イコールの関係で結ぶというのは、
マクルーハンの諸作の中で繰り返し見られる位置付け
・メディアが社会の構造に与える変化、
それこそがメディアの「メッセージ」であると。
そしてなぜ変化が生まれるのかと言えば、
新しいメディアによって、
新しい人間のつながりやコミュニケーションスタイル、
情報伝達のスピードの変化などが生まれるから
・「メディアはメッセージである」の章は、こう言えばたぶん明快になる。
いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を生み出すものである
←マクルーハン『メディア論』
・「地球上のすべての成員を巻き込んで呉越同舟の状態にしてしまう
電気回路技術が到来した今日以後、
そうした旧来の「国民」は生きのびることはできないであろう。」
←マクルーハン
・新しい技術が普及して周囲を取り囲む「環境」になってしまうと、
その環境の中にいる限り技術の本質は見えなくなる
・「すべてのメディアは人間のいずれかの能力―心的または肉体的の延長である。
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・マクルーハンはメディアを「テクノロジー(技術)」全般を指す
言葉として使っていて、非常に広い意味を持たせている
・「貨幣は労働を拡張し、備蓄する方法である。
われわれが今日利用する交通網は、
その昔われわれが脚や背中でやっていたことを効率的に行っている。
実際、人間の手になる道具のすべては、かつて人間がわれとわが肉体、
もしくは身体の特定の一部を使って行っていたことの拡張として受け取れる
←エドワード・T・ホール 『グーテンベルクの銀河系』で引用
・「二重継承理論」(二重相続理論)
→肉体だけでなく、技術的な要素(道具や知識など)も変化させ、子孫に受け継ぐ
・マクルーハンはメディアを人間が生み出した技術、
テクノロジー全般を指すものであると考えていました。
そしてあらゆる技術というものは、人間の身体や神経を拡張したものであり、
必然的に人間の感覚を拡張するものであると考えられます。
つまりマクルーハンの頭の中では、
「メディア=テクノロジー=身体の拡張=感覚の拡張」
という等式が成り立っている
・われわれの感覚のどれひとつが拡張されても、
それは、われわれの考え方、行動の仕方―世界を認識する仕方、を変える。
これらの感覚比率が変わる時、人間も変わる。
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・あるテクノロジーによって感覚が拡張され、
結果として感覚比率が乱されると、
新しい比率によって新しい「ものの見方」が生まれ、
人間の行動が変化する
・マクルーハンは、文字が登場する以前の社会にまで考えをめぐらせ、
人類初のメディアを「話し言葉」であると位置づけました。
見えるものだけでなく、知っているものすべてを書き込む。
氷塊の上であざらし狩りをしている男の絵を描くのに、
氷塊の上の部分だけでなく、
水面下にある部分もいっしょに書いてしまう。
原始時代の画家は、彼が描き表したいと思うすべてのものを
十分に説明しつくすまで、
さまざまな視覚的側面を、可能な限り、よじり、傾けてみせてくれる。
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・文字登場以前の「感覚比率」の中で最も大きな割合を占めていたのは「聴覚」
・聴覚的空間は特定の方向性を持たない、球形をした、境界線のない空間
・視覚では捉えきれない部分の情報が重視され、
「目で見た通り」ということがあまり重視されない世界では、
見えていない部分までが、見えていない構図で書き込まれる
・「アフォーダンス」←「モノが人間に認識させる『行為の可能性』」
・マクルーハンの理論における「聴覚的空間」という環境は、
文字登場以前の人類にとっての「環世界」であった
・表音アルファベットの出現によって、
耳の魔術的世界は目の中性的世界に席を譲らねばならなかった。
人間は耳のかわりに、目が与えられたのである。
・視覚的空間は聴覚的空間とは異なり、
一定の方向性と境界線を持つ世界だとマクルーハンは考えました
・「視覚的空間」の持つ方向性です。そしてその方向性は論理的な思考を促し、
今日よりも明日、明日より明後日の方が一歩進んでいるという具合に、
段階的な進歩を促していくものであるとマクルーハンは考えました。
・視覚的空間による思考の直線性、連続性、分析性も強化されることになり、
近代における工業化や市民社会の発生につながった
・感覚比率の第3の変化、最も新しく起きた変化が、
電子テクノロジーによる「聴覚空間の復活」です。
・物事が再び同時多発的に流れ出すことで、
古代に存在していたような部族的な人間関係が復活すると
マクルーハンは説きました。
・新しいメディアの場合、それまで存在していたメディアを
「コンテンツ」として、中に取り込む
・聴覚空間における人々は、「国民」というような単位ではなく
「部族」という小グループ単位でまとまる
・「新しいテクノロジーを導入する国は、
つねに古いテクノロジーから理想をつくりあげたのである」
・古い価値観を更新する準備を怠れば怠るほど、
新しい技術環境によって、より大きな苦痛がもたらされる
・「熱いメディアはどれも冷たいメディアより人の参与を許さない。
だから、講義は演習より、書物は対談より、参与する余地がない
←マクルーハン『メディア論』
・あるメディアが人間の感覚を拡張する際に、「高精細/高解像度」で行う、
言い換えれば「与えてくる情報量が多い」のがホット。
逆に「低精細/低解像度」で行う、
つまり「与えてくれる情報量が少ない」のがクールである、とマクルーハンは解説
・「マクルーハンのホットとクールは、
もとはジャズの世界のスラングを引用したもので、
大音響のビッグバンドの魂を揺り動かし酔わせる『ホット』な音楽と、
もっと小さなバンドの心を惑わせ誘い込む『クール』な演奏を比較する言葉だった」
←レヴィンソン
・「人間は情報が満たされていることを願う傾向ある」というものです。
この前提がないと、クールなメディアに接した人々が
わざわざ能動的に行動して、情報を補完することはあり得ません
・「実験的にいっさいの外部からの感覚を取り除いてしまうと、
被験者はものすごい感覚の埋め合わせ、補充を始める。
それは幻覚に他ならない」
←マクルーハン『メディア論』
・マクルーハンは印刷を「書き言葉がホットになったもの」と捉えています
・「インディアンは自分のカヌーの、カウボーイは馬の、
重役は自分の時計の、それぞれに自動制御装置だ」
←マクルーハン
・本当にそうしたいという意味が先にあって生まれた行為ではなく、
手元にあるツィッターと携帯電話というメディアが、
過度な情報発信を人間に促した結果なのかもしれません。
・電気テクノロジーによって形成された社会は、データ分類の習慣を捨て、
パターン認識の様式をとり上げることを、われわれに強いた。
われわれは、もはや、順序立てて、一部また一部、一歩また一歩というふうに
思考を組み立てていくことはできない。
というのも、即自的コミュニケーションにより、
環境と経験のすべての要因が
活発な相互作用を営みながら共存するという状態が
作り出されたからである。
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・人間は自身をとり囲む環境の体系であるいは文化の基本規則を
けっして自覚することがない
→マクルーハン『メディア論』
・「環境は目に見えない。その基本原理、全体的な構造。
そして、包括的なパターンを知覚することは、難しい。」
←マクルーハン
・「われわれはバックミラーを通して現代を見ている。
われわれは未来に向かって、後ろ向きに進んでゆく。」
←マクルーハン
・「新しい電子テクノロジーがもたらした相互依存関係が、
地球全体をひとつの村に再創造させる
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・「現代はすべてのことが同時に起きるまったく新しい世界である。
“時間”は止まり、“空間”は焼失した。
われわれはいまや、地球という一つの村である世界
…同時的なハプニングの世界…に住んでいる。
われわれは、文字テクノロジーによって
数世紀にわたってはばまれてきた原始的感情、部族的感情を、
ふたたび構成しはじめた。
←マクルーハン『メディアはマッサージである』
・デジタルメディアも同じような性質を持ち、
情報は文章のように順を追ってやってくるのではなく、
音声のように一斉に、あらゆる方向から降りそそぐことになります。
その結果、原始的な感情と部族的な集合が支配する「村」が復活する
・「地球村とは人々の間で激しいやり取りが起きる、不快な環境」
←マクルーハン
・デジタルメディアは時間や感情の壁を取り払い、
人々があたかも同じ「部族」へと回帰したかのように感じさせる
―つまり他人の逸脱行動を許せない、
放っておくわけにはいかないと感じさせるものであるために、
必然的に「炎上」を招く傾向にあるのかもしれません。
・大量の情報を前にした人間は、その真偽や妥当性を
いちいち検証するのではなく、「神話」というイメージを作ることで
情報処理の手抜きをするようになる

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