『文化の解釈学』 C.ギアーツ 著 吉田禎吾・柳川啓一・中牧弘允・板橋作美 1987年刊 岩波現代選書 訳

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文化の解釈学2

 

『『文化の解釈学』
C.ギアーツ 著 吉田禎吾・柳川啓一・中牧弘允・板橋作美 訳
1987年刊 岩波現代選書

 

アメリカの人類学を大きく方向付けたギアツの主著。
優れたフィールドワークと、そこから多角的に展開される分析、
さらに文化と人間の普遍的な関係へと踏み込み、
文化に還元される人間、文化という人間に至る。

以下、本文より…

・マックス・ウェーバーと共に、人間は自分自身がはりめぐらした
意味の網の中にかかっている動物であると私は考え、
文化をこの網として捉える。

・ライルが「薄い記述」と呼んだもの、
つまり目くばせ練習をする者
(真似をする者、目くばせする者、自然にまばたく者…)
が行っている(「右目をまたたく」)という記述と、
彼がやっている(「秘密のたくらみがあるかのように、
人をだますために友だちがまばたくのを真似る」)
という「厚い記述」との間に
民族誌の目的があるということが重要なのである

・「文化は人間の精神や心に〔内在する〕」←ウォード・グディナフ

・文化は心理的構造からなり、その構造によって
個人や個々人の集団の構造がみちびかれると考える←認識人類学

・人類学の著述はそれ自体が解釈であり、
さらに二次的、三次的解釈なのである。 (本来、「現地人」のみが一次的解釈を行う。それは彼の文化にほかならない。)
人類学の著述はしたがって創作である。
それが「作られるもの」、「形作られるもの」であるという意味
―フィクティオー(fictio)の本来の意味はそこにある―
における創作であり、
それはまちがっているという意味でも、
事実に反することでも、また単なる「仮空の」思索という意味でもない。

・「文化解釈の一般理論」を書くことはできない。 あるいは書けるかも知れないが、それはほとんど役に立たない。
というのは、理論構成の基本的課題は、
抽象的規則性を取りだすことではなく、
厚い記述を可能にすることであり、
いくつもの事例を通じて一般化することではなく、
事例の中で一般化することなのである

・文化の衣装を脱ぎ去った裸の理性人という
18世紀の人間のイメージに代って、
19世紀末から20世紀初頭にかけての人類学は
文化的衣装を纏った変形された動物という
人間のイメージを打ち出した

・多様な現象の中に体系的な関係を見出す必要があるのであって、
近似の現象の中に実体的な同一性を求めるのではない。
そしてそれを効果的に行うためには、
人間存在の多様な側面間の関係に関する
「層位学的」な発想を統合的な発想に換える必要がある。
それは、生物学的・心理学的・社会学的・文化的要因を
統合的分析体系の中で変数として扱うことのできる構想である。
社会科学における共通言語の確立は
たんに用語の統一の問題ではなく、
ましてやあたらしい造語の創出でもなく、
また全体としての分野に一組のカテゴリーを設定する問題でもない。
それはさまざまなタイプの理論や概念を、
いまだに別々の研究領域に隔離している発見を表現する、
有意義な命題を構成することのできるように統一することである。

・人間に関して最も意味のある事実の一つは、
われわれはすべて何千種類もの違った生活を営む自然の装備で出発するが、
結局はただ一種類の生活を営む結果に終わるということであるかもしれない。

・率直に言えば、文化から独立して存在する人間性などというものはない。
文化をもたない人間は、動物的本能にもとづく残酷な知恵に
先祖がえりした、ゴールディングの『蠅の王』に出てくる
賢い野蛮人のような人間ではないであろうし、
また啓蒙主義の高貴な野蛮人でもなく、
古典的人類学理論が暗示したような、
自分自身を見失った有能な猿ですらないであろう。
文化をもたない人間は働くことのできない怪物で、
使用に耐える本能をほとんど有せず、
感情はさらに認知しがたく、全く知能をもたない、
いわば精神の容器にすぎなかったであろう。

・われわれは文化を等して完成する、不完全ないし未完成な動物である。
しかも文化一般ではなく、たとえばドブ島民とかジャワ人、
ホビ族とかイタリア人、上流階級とか下流階級、
知識人とか商人などのように、
きわめて特殊な文化の形態を通して完成するのである。
人間の偉大なる学習能力や柔軟性はしばしば指摘されてきたが、
より重要なのは、人間が、概念の獲得や、
特定の象徴的意味体系の享受と適用という、
一種の学習に極度に依存している点である。
・人間もまた一人残らず文化的所産なのである

・「解剖学的にわれわれと同じような人間が
文化をゆっくり発見していったと考えるよりも、
われわれの身体的構造の多くは文化の結果と
考えるほうが恐らくいっそう正確である」
←Washburn,”Speculations on the Interrelation”

・人間においては知覚も精神も、感情の象徴的モデルの指示なくしては、
精密に形成されえないという点が重要である。
決心するためにはどう感じるかを知る必要がある。
そしてどう感じるかを知るためには、
儀礼や神話や芸術が提供してくれる、
感覚の公的イメージが必要なのである。

・人類の思考が第一義的には
共通文化の客観的素材によってなされている顕在的行為であり、
副次的にのみ私的な事柄であることを示唆

・情調と動機づけのもっとも重要な差異は、
われわれに関する限り、動機づけは、
役立つと考えられる目的に関して「意味をなす」のに対して、
情調は、情調が発すると考えられる条件に関係して、「意味をなす」のである

・明らかに歌の象徴は、人間の苦悩の問題に集中し、
苦悩を、意味あるコンテキストの中に置くことによって理解され、
理解されることによって苦しみに耐えることができる。
それを処理しようと試みる。

・「雨は正しきに者に降る
しかし不正なる者にも降る
されど多くは正しき者の上に
不正なる者は正しき者の傘を奪ってもつゆえに」

・宗教的信仰は、普通、居住の場所、職業上の役割、
親族の地位等と同じく、個々人をいつも変わらず
特徴づけるものとみられている。
しかし、儀礼のさなかの宗教信仰は、
全人格をまきこみ、その人に関する限り、
その人を他の様態に運ぶのである。

・その道徳的活力の源泉は、それが現実の基本的性格を
表現する忠実さあると考えられている。
極めて強制的な「すべきである」ことは、
包括的事実に関する「である」から生まれてくると
感じられている。
そしてそのような仕方で、宗教は、
人間行動の最も特殊な要求を人間存在の
最も一般的な脈絡に基礎づけるのである

・「出来事はただ存在し、ただ起きるのではなく、
それは意味をもち、その意味ゆえに起きるのである」
←マックス・ウェーバー

・機能主義が変化の問題に対して無力である最大の原因の一つは、
この理論が社会的過程と文化的過程を同列に扱ってしまうことにある

・このシンクレティズムで中心的な儀礼の形は
スラマタン(slametan)とよばれる共食儀礼である。
スラマタンは、形式と内容はそれぞれによって少しずつ違うが、
宗教的に重要な意味をもつほとんどすべての場面
―人生のさまざまな通過点、暦上の祝祭日、
農作物周期の特定段階、引越し、その他―で催される
このスラマタンは、諸精霊に対して供物をささげるという意味とともに、
生者にとっては、共食という社会的統合の意味をもっている。

・複雑化した都市生活の中では
伝統的な村の行政機構が効果的に機能しなくなるということだけでなく、
水稲耕作の技術上の必要から行われる
家族間の協調の義務がなくなるということが、
シンクレティックな村落形態を支えている社会的基礎を著しく弱める。
それぞれが、全面的にではないにせよ、
隣人たちがどのような生活をしていようとも、
それと無関係に自分の生活
―運転手、商人、事務員、あるいは労働者として―
を送っていると、
近隣社会の重要性に対する意識は当然弱まる。 階級分化が進む、行政形態がより官僚的、非個人的になる、
社会的背景の不均質性が高まる、
これらのことのすべてが同様の結果、
つまりイデオロギー的な結合が多くなるにしたがって
厳密に地縁的な結合の重要性が減少するという結果をまねきがちである

・葬式の細々した雑事、四方八方からやって来る隣人たちとの
丁重な儀礼的交誼、約三年間何度か催される一連の
死者を偲ぶスラマタン、これらジャワの儀礼体系がもつ全動力は、
人びとが深刻な情緒不安に陥ることなく
悲しみを通りすぎることができるようにするのである。

・葬式とそれに続く服喪は、このパラドックス的な欲求、
つまり一方では死に直面してもきずなを維持しつづけたいと思うと同時に、
他方では直ちに、しかも完全に関係を断ってしまいたいと思う欲求、
そして生への意思が絶望への誘惑に打ち勝つのだということを
確かなものつぃたいという願望、それらを焦点としている。
埋葬儀礼は、遺族が恐怖に襲われてその場から逃げだしたい衝動、
あるいはその逆に墓の中まで死者について行こうとする衝動に
駆られることを防ぐことによって、人間生活の連続性を維持するのである。

・文化的構造と社会的構造は
単に一方が他方の反映であるような関係にあるのではなく、
それぞれが独立の、しかし相互に依存した変数である

・合理化された宗教は、ずっと抽象的で、
より論理的にまとまっていて、いっそう一般的に表現される。
伝統的宗教では潜在的にまた断片的にしか表現されなかった意味の問題は
、 合理化された宗教では、念入りに取り扱われ、
総合的な態度で扱われている。
意味の問題は、特定の出来事に不可分のものというよりも、
普遍的なものとなり、人間存在そのものに
本質的な性質のものになる。

・「納屋が他の人の兄弟の上ではなく、
私の兄弟の上にくずれ落ちたのはなぜだろうか」
というように問いかけるのではなく、
「善人が若くして死し、悪人が月桂樹のように
はびこるのはなぜだろうか」
というように問いかけるようになる

・これらの多様な宗教体系が共有しているものは、それらの信条
―それが広められるにつれてその特色は深められた―
の特定の内容ではなく、
それが伝えられる形式的パターン、一般的な型なのであった。
それらの宗教すべてにおいて、神聖の感覚は、
無数の木の精霊や耕作の呪文
―それを通じて生成の感覚は漠然と広められた―から、
たくさんに広がった光線がレンズの焦点に集まるように、
集められ、聖なるものの観念に
(必ずしも一神教とはかぎらないが)集中されたのである。

・聖性に位置は棟木や墓場や、日常生活で道を横切ることなどから移り、
或る意味で、ヤーヴェー、ロゴス、老子、バラモンの住む
別の領域の中に押しこまれたのである

・強調されるのは正統的な教義ではなく、行為である。
各儀礼がこまかい点にわたって正しく行われなければならない
ということが重要なのである

・政治体系は儀礼体系を支持するために
―この逆であるよりも―
存在したということができる

・少なくとも現代世界においては、
大多数の人はパターン化された絶望に生きている。
・象徴的型板が必要である理由は、
よく言われてきたことであるが
人間行動がそもそも極めて可塑的であるからである。

・遺伝的プログラムやモデル―内在的情報源―によっては、
厳密どころか非常に大まかにしか制御されていないために、
人間行動がともかく何らかの有効な形をもつためには、
かなりの程度まで外在的情報源によって制御されなければならない。

・イデオロギーの試みとは、
さもなくば理解不能な社会状況を意味あるものとし、
その状況の内で目的をもって行為することが可能となるような
その状況を読み取ろうとすることで

・ヒンドゥ期においては、国王の城は
実質的には都市全体を含みこんでいた。
インド的な形而上学の諸観念に則り
四角く区切って築かれた「天国の都市」として、
それは権力の座以上のものであった。
それは現実の存在論的な形お要約する範型なのであった。

・科学もイデオロギーもともに
批判的で想像的な「作品」(すなわち象徴的構造)である

・新興国で、これら二つのテーマ
(名づけるとするなら「エッセンシャリズム(本質主義)」と
「エポカリズム(新時代主義)」)がまったくみられない国はない。

・バリの国家と、それが支える政治生活の特質は、
見せる、ということであり、その特徴はバリの知られる限りの
歴史を通じて見られた。

・19世紀バリの政治は、相反する二つの力、
すなわち国家儀礼の持つ求心力と
国家構造の持つ遠心力の間の緊張関係としてとらえることができる。

・伝統国家の文化的装置
―詳細な神話、手の込んだ儀礼、決め細かい儀礼―
が崩れるとともに、
それに代わって、政治の本質と目的について、
むしろもっと抽象的、自発的で、また言語の形式的な意味で
理にかなった考え方が生まれてくる。
そのような観念を言葉の本来の意味で
イデオロギーと呼びたい

・二項対立
―コンピューター技術が近代科学の混合語(リングア・フランカ)と呼んだ
正(プラス)と負(マイナス)との間の弁証法的対比―
は、言語学の基礎であるように、
野生の思考の基礎をもなしている。
そしてまさにこれこそが、諸要素を、
同一のものを本質的な多様な形に変えるもの、
つまりコミュニケーションの体系なのである。

・バリ人の社会的行動の中でもう一つ顕著な性格である
「クライマックスの欠如」

・(ウェーバーの言葉にしたがえば)、
人生への意味の付与は人間存在の主要目的であり
第一条件であるので、意味の獲得は経済的経費を補って余るものがある。

・生活と同じように、社会は、それ自身の解釈を内蔵している。
ただ如何にしてその解釈に近付くかを学びさえすればよいのである。

 

 

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