『西太平洋の遠洋航海者』
B・マリノフスキ 著 増田義郎 訳
1967年刊行 中央公論社 『世界の名著59』収録 (抄訳)
2010年刊行 講談社学術文庫 (抄訳)
『西太平洋の遠洋航海者』(Argonauts of the Western Pacific)は
1922年に発表された、人類学者マリノフスキ(Bronis?aw Kasper Malinowski)の主著である。
太平洋のトロブリアンド諸島での「クラ」と呼ばれる贈答交易について分析されたものであり、
文化人類学の記念碑的名著とされるものである。
周到で格調高い序論には、彼の研究姿勢が述べられている。
それは「自己流の考えを投げ捨て」「たえず、意見を修正」しながら
「論文を構成する仕事と実地の観察とを、交互に練り上げていく」
という求道的とも言える姿勢である。
これによって人類学における参与観察の手法が確立されたということになるのであるが、
これは単なる手法の問題ではなく、彼の世界との関わり方、生き方の宣言でもあるのだろう。
序文ではさらに、研究の究極の目標を「彼の世界についての彼の見方を理解すること」している。
その見方は「伝統の心理的力と、環境の物質的条件の相互作用」によって生み出されたものであり
「生活を規制する諸制度」や「思想の媒体である」言語などによって刻印されるものとされる。
言語や生活習慣や伝統までを貫いて現れる人と文化を、
自らの身をもって知ることを目標とするということである。
個別の事象にとことん深くかかわることで見出される普遍性。
それがこの研究姿勢の凄みであり、この著作が古典として読み続けられる理由なのであろう。
このような<対象に入り込む>という姿勢が現れたのは、
この頃ヨーロッパにおいて王様たちの帝国が滅び民衆の時代が始まっていたこととも無関係ではないように思われる。
「クラ」は、太平洋の南の島々を、古くて汚い首飾りと腕輪が、
それぞれ右回りと左回りに受け渡されていくという、行為としてはごく単純な贈り物の話である。
しかし、その単純さには
深みと厚みと装飾と技術と歴史と神話と信仰と儀式と呪術と怪談とおまじないと夢とロマンと冒険と思い出と誇りと威信と、
個人と集団のアイデンティティのありったけが注ぎ込まれている。
「クラ」は、人間の作る文化の縮図であり、小宇宙である。
マリノフスキは、これを「家宝」や「トロフィーないし優勝杯」と比べ、こう述べる。
「醜く、ものの役にたたず、現代の標準からいえば無価値であっても、
それが歴史の舞台の上で輝き、歴史的人物の手をへて伝えられた、
たいせつな歴史上の思い出を無尽蔵に封じ込めた容器であるかぎり
それはわれわれにとって貴重なわけである」
日本では、一番イメージしやすいのは選抜高校野球の「紫紺の優勝旗」であろう。
それは単なる古くて汚い旗ではない。
そこには長い歴史とドラマが宿っていて、
金銭には換算できない価値がある。旗の重みは歴史の重みである。
旗はそれを手にした過去の人たちと、これから手にする未来の人たちと共有物であり、
その過去から未来への誇りある一地点に自らの存在を位置付けるための「しるし」である。
それは誰の所有物でもなく、それを手にするすべての人のものである。
それは「モノ」に集約される「コト」であり「キモチ」である。
「クラ」には優勝旗よりもさらに多くのものが込められているのであるが、
旗との比較からだけでも、それが単なる南の島々の奇妙な昔話ではないことは明らかである。
むしろ現代では、肥大化して見えにくくなっている文化の本質を教えてくれる貴重な例であることがわかる。
マリノフスキは、またクラで受け渡される品物を「誇示用品」とも呼んでいる。
「第一級の腕輪と首飾りは、どれも固有の名前とそれ自身の歴史をもって」いて、
それが誰によって所有されていたか、
どのようにしてここにあるかなどの由来が常に語り草として重要である。
その意味ではクラの品物は日本の戦国武将たちが争って求めた「名物」に似ている。
「名物」は室町幕府の将軍が持っていた茶道具にはじまるものであるが、
これが領土ひとつに匹敵する価値があると言われたり、
それらを勝手格付けしたという理由で不届き者として死刑になったりするほどのものであった。
それを所持していることのステータスは計りしれず、
贈与体系の頂点にあるものとして、
信長や秀吉の天下統一にも欠かせないものであった。
クラ交易で入手され運ばれる首飾りと現在の展示品。
左が腕輪(ムワリ)で右が首飾り(ソウラヴァ)
(国立民族学博物館)
戦国時代の<名物>
幾度も戦火をくぐり抜け、足利家から三菱財閥まで
600年以上も各時代の覇者の手にあり続けてきた
茶入れの<名物>「付藻(九十九)茄子」
ここまでくるとほとんど聖遺物
(静嘉堂文庫美術館)
「クラ」と物々交換
「クラ」は時間的間隔をおいて「お返し」のある「贈り物」である。
しかし、本格的な「クラ」は単に<ありがとう>の一言で済むような軽いものではなく
親族や集団の威信や面子をかけた<贈り物事業>あるいは祝祭または闘争となる。
それは交換がその場だけで関係が完了してしまう
単純な物々交換や商取引とは一線を画したものであり、
そこには必ず人格が付随し、付随した人格は「モノ」に宿るのである。
「贈与」に対する「お返し」は武士の仇討や
四谷怪談の「恨みはらさでか」にも似た切実な感覚で、
世界のバランスを回復するために必要なことなのである。
クラの品を受け渡しのマナーは「むぞうさに、やぶからぼうに、ほとんど怒ったような態度で
与えられ、受け取るほうも、同様に冷淡な侮蔑的な態度で」受け取られなければならない。
また、恐れて贈り物を受け取らないとか、
お返しを値切るとか、そのような恥ずかしい行為も
ゆるされない。贈り物が挑戦状とか果し状のような意味を持つのである。
そして贈り物は「噛む」とか「貫き刺す」とか少し怖い言葉で表現されたりする。
現代の日本でも、手作りチョコが彼のハートを<射抜い>たりして、それなりに恐ろしい。
もちろんその手作りチョコは必ず受け取られなければならないし、
返礼も立派になされなければならない。
客観的には些細なことに見えても、
それは当事者たちにとっては切実な事柄で、
その些細で切実な聖なる日に向けて、日本のお菓子業界や小売業界も全力を傾ける。
高度に発達した巨大なインフラや流通システムが、
彼のハートをロックオンするために利用されるように、
南の島々の海上流通システムはクラのために利用された。
と書いていると、まるで「クラ」がツンデレの中二病のようでもあるのだが、
ツンデレで中二病で武士道で四谷怪談、
という面倒でややこしい感情が無数にからまりあって、
今も昔も人の世を作り上げているのだろうし、
どのようにシステムが進化しても、それはいつも感情に従属する。
「クラ」は何のために
クラは南の島々の人たちを出会わせ競わせ駆り立てるのであるが、
そしてその取引の連鎖は大きな輪を描いて完結しながら、また同時に始まる。
それは何のために行われるのか。
マリノフスキはこう答える。
「誇示し、分かち合い、贈与したいという人間の基本的な衝動」のために人は
「贈り物が、いったい必要なのか、それとも役に立つのかなどと考えずに、与えるがために与える」
そして「富の授受は、社会を組織し、首長が権力を握り、
親族がきずなをもって結びあい、法的な関係」を成立させるための条件をつくり、
「全生活は恒常的な授受関係に満たされ」ることになる。
というとまるで贈収賄でできている社会のようにも聞こえるが、
公的部門が存在しない社会では贈収賄は成立しないし、
そもそも「彼らにとって所有することは与えること」なのだから、
その通帳は人格を映す鏡としていつもきれいに清算されている。
「クラ」によって結ばれる一続きの世界
「ひとつながりの秘宝」を求めて仲間たちと航海を続けているらしい大人気コミックののようだ。
国立民族学博物館の展示資料より
「クラ」はどこのテーマパークのイベントよりもはるかに<リアル・ワンピース>であり、
その物語への熱狂が日本の流通システムを大きく回しているよに、
「クラ」にへの情熱は南の島々のシステムを回す。
1970年に行われた クラの航海 (市岡康子『KURA』より)
クラカヌーの模型 (『オセアニア 海の人類大移動』より)
カヌーの帆作りの様子。伝統的な帆はパンダナスの葉を縫い合わせて作られる
1910年代(『Malinowskis Kiriwina』より)
1970年(市岡康子『KURA』より)
南の島々の呪術について
マリノフスキはこの著作の中で呪術についても深く考察している。
呪術とは「本質的に人間の内面の力の自然に対する自己主張」であり、
「呪術の呪文と呪文が言い表している主題は、
いっしょに生まれたもの」でそれらは初源的で自己発生的なものであると述べられている。
南の島々においても<はじめに言葉ありき>なのである。
呪術によってはじまる世界において人は
「だれでも呪術を腹の中にしまっている」呪術的存在であるし、
もちろん「全ての経済活動は呪術をともなう」ものである。
現代日本において、スーパーやコンビニのレジにカードをかざして精算を行う姿は、
どこか呪術的に見える。かつての言葉による呪文は、今では分解されて電子になったようだ。
<はじめに言葉ありき、おわりに電子ありき>
<すべての経済活動は電子をともなう>である。
アルゴノーツとクラの冒険譚
大仰な儀式を経て船団を組み、海を渡るクラの冒険譚には、
ギリシャ神話のアルゴ探検隊の物語によく似たものがある。
女だけの国があったり、巨大なタコが船を襲ったり、
生きた石が船を壊したりするのである。
それぞれが独自に出来上がったものか、
地域間で何かの影響を与えあったものなのかはわからない。
カヌーの船首飾り
100年前に撮影されたもの (『Malinowskis Kiriwina』)
曲線と海鳥の姿を組合わせた見事な飾り8世紀のケルトの装飾写本を思わせる
写真左:国立民族学博物館所蔵のもの
写真右:ケルトの装飾写本(『ケルズの書』より)
左:カヌーの櫂づくりの様子(『Malinowskis Kiriwina』)
右:トロブリアンドのものはやや幅広で特徴的なスペード型(右中央・国立民族学博物館)
出航を待つクラカヌー(国立民族学博物館)