『野生の思考』 C.レヴィ=ストロース 著

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原題は La Pensée sauvage
本国での発表は1962年である。

とても饒舌な本である。
そして難解でありながら単純でもある。

要するに、
<現代的っていうか、科学的っていうか、
同じものをダーッと作る「栽培された思考」もいいんだけれど、
そのすぐ隣には 色とりどりに咲き乱れる「野生の思考」っていうのもあって
それもちゃんと見た方がいいよ。
ほら、きれいじゃん。この表紙の野生のパンジーみたいに。>
なのだけれども、
人によっては「器用仕事(ブリコラージュ)」や「隠喩」
あるいは「カレイドスコープ」や「鏡」といった部分を中心に
読んでいくかもしれないし、
前著から続く「トーテム」や次に続く「神話論理」と関連付けに
重点を置くかもしれない。
全部まとめて「文化相対主義」と結論付けてもいいのだろう。
三色スミレの「構造」と文化の比喩から人間の思考を探る、というのもありだろう。
割と自由に読んでいいような気がする。

このさまざまなキーワードがいくつも重なり合いながら、
部分と全体が呼応していく面倒くささみたいなものが
(それが音楽的といわれるところなのかもしれない)
たぶんこの本の身上なので、
それをわかるためには
<どこから読んでもいいけど全部読んでね>
なのだと思う。
なにしろ、表紙の図柄の謎解きが
最後の付録の3ページに書かれていて
それも回答はなくてヒントだけ、
答えは本文の中で探ってね、
というような構成なのだから。

 

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『野生の思考』 C.レヴィ=ストロース 著

大橋保夫 訳 1976年 みすず書房

 

 

以下、本文より・・・

 

 

第1章「具体の科学」
・どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。
それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。
われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に
支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、
われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、
また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方が
われわれの知識欲より均衡のとれたものだと
思われていることに注意をしていない。
・組織化の要請は芸術と科学に共有の欲求である。
したがって「分類額は、まさに秩序づけそのものなのであるから、
すぐれた美的価値をもつものである。」
・呪術は本体に先立つ影のようなものであって、
ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、
すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。
呪術的思考は、まだ実現していない
一つの全体の発端、冒頭、下書、ないし部分ではない。
それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、
したがって、科学という別の体系とは独立している。
この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、
それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。
それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、
この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。
それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない
(呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、
成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実であるから)。
しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。
知的操作の性質自体が異なるのではなくて、
それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。
・土器、織布、農耕、動物の家畜化という、
文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。
今日ではもはや、これらの偉大な成果が偶然の発見の偶然の集積あると考えたり、
ある種の自然現象を受動的に見ているだけでみつかったものだとする人はあるまい。
これらの技術はいずれも、
何世紀間にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、
また大胆な仮説を立ててその検証を行い、倦むことなく実験を反復して、
その結果捨てるべきものは捨て、とるべきものはとる
という作業を続けてはじめて成り立つものである。
・このような具体の科学の成果は、
本質的に、精密科学自然科学のもたらすべき成果とは
ことなるものに限られざるを得なかった。
しかしながら具体の科学は、近代科学と同様に学問的である。
その結果の真実性においても違いはない。
精密科学自然科学より1万年も前に確立したその成果は、
依然としていまのわれわれの文明の基層をなしているのである。
・神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である。
・器用人(ブリコール)の用いる資材集合は、
単に資材性(潜在的有用性)のみによって定義される。
器用人自身の言い方を借りて言い換えるならば、
「まだなにかの役にたつ」という原則によって集められ保存された要素でできている。
・これと同様に、神話的思索の諸要素はつねに知覚と概念との中間に位置する。
知覚内容をその生じた具体的状況から抜き出すことは不可能であり、
また他方、概念にたよるためには、
一時的にせよ思索がその計画を「括弧に入れ」うることが必要になる。
ところで、比喩(イマージュ・心像)と概念のあいだには媒体が存在する。
それは記号である。言語記号という特定の種類の記号については
ソスュールが考え出した定義のしかたを一般化して、
記号とは心像(イマージュ)と概念の結合であると定義できるからである。
こうして結合が成立すれば、その中で心像と概念は
それぞれ「能記」と「所記」の役割を演ずることになる。
・したがって相違点は考えられるほど絶対的なものではない。
しかしながら、それはやはり現実に存在する。
文明の一状態を要約したものである諸拘束に対したとき、
エンジニアはつねに通路を開いてその向こうに越えようとするのに、
器用人(ブリコール)は、好んでにせよやむをえずにせよ、
その手前にとどまる。
言いかえれば、技師が概念を用いて作業を行うのに対して、
器用人(ブリコール)は記号を用いるということになる。
自然と文化の対立の軸において、
彼らの用いるこれらの両集合[概念の全体と記号の全体]にはずれがあり、
その差は感知できるほど大きい。
記号と概念の対立点のうちの少なくとも一つは、
概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、
記号の方はこの現実の中に人間性がある厚味をもって入り込んでくることを容認し、
さらにはそれを要求することさえあるという所にある。
厳密にして翻訳困難なパースの表現を借りれば It addresses somebody である。
・概念は仕事に使われる資材の集合を開く操作媒体(オペレーター)となるが、
記号作用はその集合を組みかえる操作媒体(オペレーター)であって、
集合を大きくもしなければ更新もぜず、ただそれの変換群を獲得するだけにとどまるのである。
・「神話の世界はでき上がったと思うとすぐ分解し、
その断片からまた新しい世界ができ上がるかのごとくである。」(ボアズ)
・器用人(ブリコール)は、前述のように、ものと「語る」だけでなる、
ものを使って「語る。」限られた可能性の中で選択を行うことによって、
作者の性格と人生を語るのである。計画をそのまま達成することはけっしてないが、
器用人(ブリコール)はつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。
・ある意味で通時態と共時態の関係は逆転している。
神話的思考は器用人であって、
出来事、いやむしろ出来事の残片を組み合わせて構造を作り上げるが、
科学は、創始されたという事実だけで動き出し、
自ら絶えまなく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、
出来事という形で自らの手段や成果を作り出してゆく。
・科学者と器用人(ブリコール)との相違は、手段と目的に関して、
出来事と構造に与える機能が逆になることである。
科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、
器用人は出来事を用いて構造を作る。
・科学のやり方が換喩的(メトニミー)であって、
あるものを他のものによって、結果を原因によって置き換えるのに対し、
美術のやり方は隠喩的(メタフォール)である。
・美術はある集合(事物+出来事)から出発してその構造に向かう。
神話はある構造から出発して、それを使って一つの集合(事象+出来事)の構成を企てる
・思惟面での神話的思考が実用面での器用仕事(ブリコラージュ)と類似性をもち、
また芸術的創造が前記の二つの活動形式と科学から等距離に位置するように、
ゲームと儀礼のあいだにも同種の関係が見られる。
・しかし死はまだ決定的ではない。
生者の中に戻りたいと望む亡霊の願いを、
心をいためつつも兄がはねつけることによって、
死は決定的となったのである。
・さて死者の霊が最終的にあの世に行く決心をつけ、
そこで、守護霊の役割を果たすためには、
跡継ぎの儀礼が不可欠なのであるが、
通常その儀礼には、運動競技、技のゲーム、運のゲームがつきものになっている。
とくにそのためにトカンおよびキッコという二つの半族の区分が設けられ、
それにもとづいて両陣営にわかれて試合をする。
そして、これは生者と死者のゲームであることが繰り返して明言される。
それはあたかも、最終的に死を厄介払いしてしまうに先立って、
生者が彼に最後の試合を捧げて慰めるかのごとくである。
・したがってゲームは離接的である。
それは対戦する個人競技ないしチームの間に差別を作り出す。
ゲームが始まるときには、両者ともまったく平等であったのに、
終了するときには勝者と敗者にわかれる。
これと対照的に儀礼は連接的である。
なぜならそれは、もともと離れていた二つの集団
(極限的な場合、一方は祭儀執行者一名、他方は信者集団となる)のあいだに
結合(ユニオン)(ここでは<霊交―コミュニオン>と言ってもよい)、
ないしはいずれにしても何らかの有機的関係を設定するからである。
・科学(ここでもまた、思惟的な面において、または実際的な面において)と同じく
、 ゲームは構造から出来事を作り出す。
したがって競技が現在の工業社会において盛んであることは理解できる。
それに対して儀礼と神話は器用仕事
(工業社会はこれをもはや「ホビー」もしくは暇つぶしとしてしか許容しない)
と同様に、出来事の集合を
(心理的、社会的・歴史的面、工作面において)
分解したり組み立てなおしたりし、
また破壊し難い部品としてそれらを使用して、
交互に目的となり手段となるような構造的配列を作り出そうとするのである。

第2章 トーテム的分類の論理
・それらが雑多不整であると言えるのは、もっぱら内容についてである。
形式については、それらの断片のあいだには類似性がある。
・これらの配列は、偶然的出来事(見る人によるカレイドスコープの回転)と
法則(カレイドスコープの構成を支配する法則―さきほど述べた、
諸制約共通の不変要素に対応する)が出合って成立し、
了解性の暫定モデルとでも言うべきものを映し出すのである。
なぜならば、配列のそれぞれは、
それを構成する各部分のあいだの厳密な関係の形で表現することが可能であり、
またそれらの関係は、配列自体以外に内容をもたず、
見る人の経験の中にはその配列に対応するものがなにもないからである。
(もっとも、このような見かたをすれば、
カレイドスコープを見ている人に、あるいくらかの客観的構造がその経験的支持物
[その構造をもった具体的事物]
以前に示されることは起りうる―たとえば、
雪の結晶の構造やある種の放散虫類や珪藻類の構造が、
それらのものを一度も見たことのない人に。)
・人間と同一視するこの感情が、差異の観念よりも深いものであること
・要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。
意味は「位置によって」きまるのである。
それは、一方では歴史と文化的コンテキストの、
他方ではそれらの要素が参加している体系の構造の関数である
[それらに応じて変化する]。
・ナヴァホ語では、野生の七面鳥が「嘴でつつく」鳥であり、
そうなれば、キツツキは「槌で打つ」鳥になる。
環形動物と幼虫と昆虫はひっくるめて、
うごめき、ふき出し、泡立ち、湧き上がりを意味する一語であらわされる。
したがって昆虫は、蛹や成虫の形よりも幼虫の状態で考えられていることになる。
・よくあるように民族誌的問題の解答は、
植物学者か動物学者か地質学者の手中にあるか、
さもなければ、地理学者か 気象学者の手中にあるのである。
・「分類の原理に公理はない」というのが真実である。
それは民族誌的調査、すなわち経験によってのみ、帰納的に取り出せる。
・これらの観察は、「祖型」や「集団無意識」にうったえる
さまざまな理論のすべてに断罪を下すものと私には思われる。
共通なのは形式だけであって、内容ではない。
・人口変動は構造を爆破してしまうことがある。

第3章 変換の体系
・経験の相体をあらかじめ整理縮小して、
その上で互いにはっきり異なるものと考えられるにいたった諸要素を
つねに対立させうるということが論理の原則である。
この第一の要求にくらべてみると、
いかに対立させるかということは、重要ではあるが、
あとで考慮されるべき問題である。
・古典的民族学者の誤ちは、
どのような種類の内容をもこなしうる方法として
観察されなければならないはずのこの形式を実体と見て、
ある一定の内容に結びつけようとしたことである。
トーテミズムないしトーテミズムと呼ばれてきたものは、
内的性格によって定義される自律的な制度ではなくて、
社会的現実のさまざまなレベルの間の理念的可換性の保証を
機能とする一つの形式体系から、
いくつかの様態だけを勝手に切り離したものである。
デュルケームがときおりほのめかしたように、
社会学(ソシオロジー)の基礎には「社会論理(ソシオロジック)にある。
・要するに、社会組織と宗教思想の分野でオーストラリアの社会が行ったことは、
18世紀末から19世紀の初頭にかけてヨーロッパの農民社会が
服装についてやったのと同じやり方なのである
・「トーテム」型の考え方と信仰がとくに注目に値いするのは、
それらを作り出すか借用した社会にとってそれがコードとなり、
概念体系の形をとって、各レベルに属するメッセージの間の可換性を保証するからである。
文化とか社会とか、換言すれば人間相互の関係だけに属すると見られるメッセージと、
他方むしろ人間と自然の関係に属すると考えてよい
技術的経済的現象のメッセージのように、
レベルが非常に異なったものの間でもこれによって変換が可能になるのである。
・実際にはトーテミズムは何よりも両者〔自然と文化〕の対立を
超越する手段(もしくは希望)なのである。
・自然はそれ自体で矛盾したものではない。
そこに加えられる特定の人間活動とのかかわりあいにおいてのみ、
矛盾を生ずるものである。
・その体系はけっして前もって確定しているものではない。
状況が等しいと仮定しても、
一つの状況に対してつねに体系化の可能性がいくつもある。
マンハルトと自然神話学派の誤ちは、
自然現象を、神話が説明しようとする対象である信じたことであった。
実際には自然現象はむしろ、現実
-それ自体が自然界でなく論理に属する種類の現実-
を神話で説明するための手段なのである。
・宗教思想の乏しさは、いくら強調してもしすぎることはないであろう。

第4章 トーテムとカースト
・文化から見れば、自然種は人間が制御したり増殖したりできるという共通性をもっている
・人間は女性を文化的に交換し、女性がその同じ人間を自然的に永続させる。
そして人間は種〔動植物〕を文化的に永続させると称し、
それを「自然の相の下に」、すなわち相互に代置しうる食品の形で交換する。
代置しうる理由はそれが食物だからであり、
また-これは女性についてもあてはまるが-
人間はあるいくらかの食物で満足して他の食物をあきらめることができるからである。
けだし、どの女性でも、またどの食物でも、
生殖や生命維持の役割は同じように果たしうるのであるから。
・トーテミズムとは、弁別的特徴によって規定しうる自律的制度ではない。
地球上のある特定の地域、ある特定の文明形式の特徴となる制度でもない。
それは、伝統的にはトーテミズムの正反対とされている
社会構造〔カースト制〕のかげにも見つけ出すこととができる「操作様式」である。
・どの社会もすべて性的関係と食物摂取とを結びつけて考える。
しかし、場合により、思考のレベルに従って、
食べる者と食べられるものに男と女をどう割り振るかはまちまちである。
その意味するところは、両項の間に弁別的差異を作って
各項を明瞭に同定できるようにしたいというのが共通の欲求である、
ということでなくて何でありえとようか?
・民族学はまず第一に心理の研究なのである。
・上部構造の弁証法、言語の弁証法と同じで、
まず「構成単位」を立てなければならない。
ただしそれらの単位は曖昧さのないように定義されなければ、
すなわち二つずつ対比して規定されなければ、構成単位としての役割を果たしえない。
つぎには、これらの構成単位を用いて「体系」を作り上げなければならない。
その上でこの体系が観念と事実の間を綜合する操作媒体として働き、
事実を「記号」に変換するのである。
精神はこのようにして経験的多様性から概念的単一性に進み、
さらに概的単一性から記号作用をになう綜合にいたるのである。

第5章 範疇、元素、種、数
・それはいくつかの定義が集まってできた一つの体系である。
それだけではない。種を構成する個体の数は理論的には無限定で、
それら個体の一つ一つは外延において不確定である。
なぜなら個体は一つ一つがいろいろな機能の体系である生体であるから。
それゆえ種という概念は内的力学をもっている。
すなわち、二つの体系の間につり下げられた集合体である種は操作媒体なのであって、
それを用いることによって多数性の統一体
〔動植物のいろいろな種が作る自然の体系〕
から統一体の多様性
〔人間という一つの種の中の多様性〕
に移ることが可能になる(もしくは必要になる)のである。
・実際行動を行う人間がそれを類の中に解消させる傾向をもつからではない。
(それは、「草食動物をひきよせるのは草一般である」という
有名な言い方を人間にまで広げることになろう。)
種の概念が必要なのは、それが客観性をもって推測されるためである。
・範疇から元素へ、元素から種へと移るための分析の手続きは、
このように延長されて、それぞれの種の理念上の解体というべきものに至り、
それが別の面で徐々に全体を再構成してゆくことになるのである。
・思考の対象となりまた概念の道具となるのは、
動物そのものではなく、動物を使ってできるこの体系なのである。
・それを用いて得られる要素は、あらゆる場合に、
あるいくつかの一般的特性を保持することになる。
切られたイモの断片の数はいつもと同じとは限らないし、
それらの形も絶対に同じとは言えない。
しかし、中央部から得られた断片はやはり中央部に止まり、周辺からのは周辺にのこる…。
・現在わかっている限りでは、大きさとしては2000という数字が、
いわば一つの能力の限界に対応しているように思われる。

第6章 普遍化と特殊化
・トーテム的分類法の本質的機能の一つにまさにこの集団の閉鎖性を打開して、
無限界に近い人間観を促進することであるあるという点がそこでは無視されている。
この現象は、いわゆるトーテミズム組織なるものの
古典的地域とされてきたところではどこでも確認されている
・ふつうならあらゆる分類法の下限と考えられる境界、
つまりそれを越えるともはや分類が不可能で、
命名だけが可能だと考えられやすい境界線の先にまで体系の作用を延長するのである。
・とりわけ大切なのは、われわれの取り上げた諸思考形式が、
与えられた有限個のクラスを使って現実を分類しつくし、
また相互に「変換」可能であることを基本的性質とする統合的思考と見られることである。

第7章 種としての個体
・結婚して子供をもつようになるまでに
ペナン族はこのようにしてつぎつぎに、6つ7つ、もしくはそれ以上の喪名を通過する。
・ある個人が死ぬとき消滅する個性とは何かと言えば、
それはいろいろなものの考え方と行動の一つの綜合体であって、
まったく独自でかけがえものである。
・それぞれの体系の中で、固有名詞は「意味量子」をあらわすものであり、
それより下のレベルではもう指示することしか術がない。
こうしてわれわれは、パースとラッセルが相並んで犯した誤ちの根源に到達するのである。
パースは固有名詞を「指標(インデックス)」と定義し、
ラッセルは指示代名詞をもって固有名詞の論理モデルと考えた。
それは、意味行為から指示行為に知らず知らずのうちに
移行する連続体の中に命名行為の位置があるとすることである。
それに反して私は、この移行が非連続的であることを明らかにしたつもりである。

第8章 再び見出された時
・これは一つの綜合的体系なのである。
だから民族学者がそれをバラバラに分解して、
トーテミズムをもっとも著名な例とする各個別々のいろんな制度を
そこからでっち上げようとしても、うまくゆきはしない。
・私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ
未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、
野生状態の思考である。
栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、
歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、
民族誌の情報
(およびこの種の情報の採集と取扱いによって身につく民族誌的感覚)
をもたなかったコントが、
野生の思考を栽培思考に先立つ精神活動様式として
回顧的な形でとらえたのは当然なのである。
今日のわれわれには、この両者が共存し、
相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。
それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、
(少なくとも理論上は)共存し交配されうるのと同じである。
・野生の思考を規定するものは、
人類がもはやその後は絶えて経験したことのないほど激しい
象徴(シンボル)意欲であり、同時に、
全面的に具体性へ向けられた細心の注意力であり、
さらに、この二つの態度が実は一つのものなのだという
暗黙の信念であるとするならば、
それはまさに野生の思考が、
理論的見地からも実際的見地からも
、 コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか?
人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、
勝手な迷信に茂樹されてではない。
また偶然の気紛れのせいでもない。
・もしある意味において、宗教とは自然法則の人間化であり、
呪術とは人間行動の自然化
―ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものでが如くに取扱う―
であると言うことができるなら、
呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、
一つの発展過程の二段階でもないことになる。
自然の擬人化(宗教の成立基礎)と
人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、
つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。
・呪術のない宗教もなければ、少なくとも宗教の種を含まぬ呪術もない。
・人間と世界が互に他方の鏡となるという、
展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。
・トーテミズムが量子的体系であるのに対し、
供犠は各項の間に連続的移行を認める体系である。
犠牲としては、瓜は卵に等しく、卵はひよこに等しく、
ひよこは鶏に等しく、鶏は山羊に等しく、山羊は牛に等しい。
またこの推移は、方向性がある。
牛がなければ瓜を犠牲に供するが、その逆は考えられぬことである。
それに反して、いわゆるトーテミズムでは関係はつねに双方向である。
牛と瓜の両方を含む氏族呼称の体系があるとすれば、
そこでは牛はほんとうに瓜と等価値であって、
その二つを同一視することはできないし、
また牛と瓜とを名前にする二つの集団の間の差異を表現することにかけて、
この両者は等しい力をもつ。
しかしながら、牛と瓜とがその役割を果たすためには、
(供犠の場合とは逆に)トーテミズムによってこの両者が区別され、
相互に代理不能であることが明確にされていなければならない。
・供犠を図式化すれば、非可逆的操作(犠牲の破壊)によって、
別の面おいて同じく非可逆的な操作(神の恵み)をひきおこすことである。
・トーテミズムの曖昧性(両義性)を
解消させようとして作られた空想の制度は幻でしかないが、
トーテミズムそれ自体の両義性は現実に存在する。
・他の分類体系が何よりまず考えられる体系(たとえば神話のように)
であるか行われる体系(たとえは儀礼のように)であるのとは違って、
トーテミズムはほとんどつねに生きられる体系である。
すなわち具体的な集団や具体的な個人に密着している。
それは世襲的(遺伝的)分類体系だからである。
・ヨーロッパとアジアの大文明地域には、
トーテミズムにつながるようなものは、
痕跡の状態においてさえも、きれいさっぱり存在しない。
これらの文明は自らを歴史によって説明することを選択したのであり、
その企図は、有限群を使って事物や存在
(自然存在としての動物、社会存在としての人間)を分類する企図とは
両立しないからではなかろうか?
・「歴史なき民族」とそれ以外の民族を分けるのはまずい区別であって、
それよりも、私の話に都合のよい呼び方で言うなら
「冷い」社会と「熱い」社会とを区別する方がよかろう
・冷い社会は、自ら創り出した制度によって、
歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響を
ほとんど自動的に消去しようとする。
熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、
それを発展の原動力とする。
・過去を生成の一段階としてよりも無時間的モデルとして考え、
それに執心するのは、なにも道徳的、もしくは知的な欠陥を表わすものではない。
それは意識的な、もしくは無意識的な、一つの態度決定の表現である。
その体系性を証明するために、一つ一つの技術、規則、習慣について
飽くことなく繰返される正当化の手段は、
全世界的に「御先祖様の教えだ」という説明ただ一つである。
西欧においても他の分野で最近に至るまでそうであったように、
古さと連続性とが正統性の基礎である。
しかし、この古さは、世界のはじめに遡るものだから、
絶対性の中に位置づけられているのである。
またこの連続性は、方向も段階も許容しない。
・先祖は自分の体を失うのではない。
妊娠があるとすぐ、先祖は自分のチューリンガ
(もしくはチューリンガの一つ)を手ばなし、
つぎに自分の生れ代りになるものに与える。
チューリンガはむしろ、先祖と現存の子孫とが
同じ一つの肉体であることを
手で触れる形で証拠づけるものである。
・チューリンガの神聖性は、この体系の中でそれだけが果たしうる
通時的意味づけの機能からくるものである。
この体系は分類体系であるために完全に共時態の中に展開されており、
その共時態には持続〔時間性〕さえも組み込むことができる。
チューリンガは神話時代すなわちアルチェリンガの可触的証人である。
・古文書は出来事性の化身である。
・「その土地全体が彼にとっては、
昔からあって今も生きている一つの家系図のようなものである。
原住民はそれぞれ各自のトーテム祖先の歴史を次のように考える。
原住民はそれぞれ各自のトーテム祖先の歴史を次のように考える。
それは、今日われわれの知っている世界を作り上げた全能の手が
まだその世界を保持していた天地開闢の時代・生命の曙の時代に対する、
原住民一人一人の自分自身の行動の関係なのである」(T.G.H.Strehlow)

第9章 歴史と弁証法
・私の考えでは、人間に関するもの(さらには、生きているもの)は
何一つとして局外に止まることを許さぬという
野生の思考の強硬な拒否の態度にこそ、
弁証法的理性はその真の原理を見出すのである。
・私のとっては、弁証法的理性はつねに構成する理性である。
それは、深淵に分析的理性が架け渡し、たえず延長し改善してゆく橋なのである。
対岸は、存在することはわかっていても見えないし、
またそれはつねに遠ざかってゆくのかもしれないが、
しかしそれでも橋を架けるのである。
・私が弁証法的だとするのはその同じ理性であるが、勇気ある理性である。
それは自分の限界を越えようとする努力のために反身になっているのである。
・したがって私は、
人文科学の窮極目的は人間を構成することではなく
人間を溶解することであると信ずるがゆえに、
唯美主義者と呼ばれることを甘受する。
・文化を自然の中に統合し、さらに窮極的には、
人間の生き方を物理化学的条件の全体の中に統合することである。
・私の展望の中では、
自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。
人間を通じて学ばれた真理は「世界に属する」ものであり、
またそれゆえ重要なのである。
・現在の地球上に共存する社会、
また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在した社会は
何万、何十万という数にのぼるが、
それらの社会はそれぞれ、自らの目には、
―われわれ西欧の社会と同じく―
誇りとする倫理的確信をもち、それにもとづいて
―たとえそれが遊牧民の一小バンドや森の奥深くにかくれた一部落のようにささやかなものであろうとも―
自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳が
すべて凝縮されていると宣明しているのである。
・文章化されようとされまいと、「懺悔」があらゆる民族的研究の根本である。
・「親族の基本構造」では、婚姻交換の無意識的起源の探究を強調しすぎて、
知らず知らずこのような誤った解釈を助けることになってしまったのである。
集団の「実践(プラクシス)」の中に現れ、
自然発生的でかつ絶対性をもつ交換そのものと、
その集団―ないしはその集団の識者―が
交換を法制化し規制するために用いる意識的な規制とを、
もっとはっきり区別すべきであった。
・人間が、語る主体として、他者の全体化の中に
自己の確実な経験を見出しうるものであるなら、
生きる主体として、他の生きる存在の中に同じ経験を見出しうることを
否定する理由はもはやなくなるのである。
そして他の生きる存在とは、必ずしも人間とかぎられない。
・かりそめの内面性を生きている自分の姿を見つめることこそ、
人間にとって賢明なやり方なのである。
・野生の思考の特性はその非時間性にある。
それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。
野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、
厳密には平行ではないが互いに他を写す
(そして間にある空間に置かれた物体をも写す)
幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。
多数の像が同時に形成されるが、
その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。
したがって像の一つ一つがもたらすのは
装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、
それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、
真実を表現するものとなる。
野生の思考は、imagines mundi(世界図―複数)を用いて
自分の知識を深めるのである。
・民族学者なら、非常に多様な社会が、
加入儀礼を考えるときには全世界を通じて
共通の考え方をすることに驚かぬものはない。
・家庭から切り離した新加入者たちをまず象徴的に「殺す」ことから始まる。
そして森か荒野に隠し、そこで他界の経験を受けさせる。
それがすむと彼らは結社の成員として「生れなおす」のである。
・科学的な実践の方が、われわれの社会において、
死や誕生の観念から単なる生理的過程に対応するもの以外の一切を除去し、
それ以外の意味を運び得ないようにした
・加入儀礼をもつ社会では、誕生や死は豊かで変化に富んだ概念化作用の材料を提供する。
・一方は感覚性の理論を基礎とし、
農業、牧畜、製陶、織布、食物の保存と調理などの
文明の諸技術を今もわれわれの基本的欲求に与えている知であり、
新石器時代を開花期とする。
そして他方は、一挙に知解性の面に位置して現代科学の淵源となった知である。

訳者あとがき
・本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる
「未開の思考」なるものが存在するという幻想の解体である。
・未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、
実は「野蛮人の思考」ではなく、われわれ「文明人」の日常の知的操作や
芸術活動にも重要な役割を果たしており、
むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。
それに対して「科学的思考」は、
かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」なのだ。
・人間精神の普遍性の把握にもとづく異文化理解
・「野蛮人とは野蛮を信ずる者のことだ」
・「人間学」と「人類学」がどちらも anthropologie
(語源はanthropos「ヒト」の学)であることに、
本書では特別に留意する必要がある。
・本書はレヴィ=ストロースの著作の中でも格別に難解なものとして知られている。
理解の前提となる知識や説明なしで用いられる
特殊用語の問題もその理由ではあるけれども、
最大の原因は、意味論的ブリコラージュを
組織的に行った独特の文体にある。
現代のフラン語の文章に対するその影響はきわめて大きく、
おそらく本書はフランス語史にその名をとどめるであろう。
それは同時に、20世紀後半のフランス語を難しくした責任を負わされるかもしれない。
・「野蛮な思考」と考えられてきたものを
「野生の思考」に転換させるという本書の直接の目的に、
このタイトルはみごとに適合している。

 

 

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