びわ湖周辺の美しい落日の風景
大津港付近で屋外に出た時に偶然出会ったという美しい夕景。
右下にはびわこ花噴水も見えています。
午後から曇りがちだった空が夕方にはこんな色になるとは驚きです。
撮影はKazuhiko Kusano さん
2017年6月12日 大津にて
間もなく(6/15~7/4)「梅狩り」がはじまる大津市大石の「長寿生の郷」。
豊かに実っているこの梅の実を見ていると、フレッシュなフルーツ感があって、その場でもいで食べたくなります。
でも、生では食べないのがこの<フルーツ>の特色。
毒性があると言われますが、キノコやフグと違って梅の実を食べて中毒になったというニュースを聞くことはあまりありません。
同じようにドングリを食べて中毒になったという話も聞きません。
そもそも食べないからです。
梅の実は漬けて(加工して)食べるというのが、暗黙の了解で、それは米を焚いて(蒸して)食べるのと同じように定着しています。
食べるのに手間かけなければならないちょっとやっかいな食材なのに、「梅雨」「塩梅」という言葉が残るほど日本人の食生活との縁は深くて古い。
そして<フルーツ>に分類するのに違和感があるほど日本的です。
収穫されたら即加工という製造・流通システムが確立しているので、今では生の梅の実を見ること自体も少なくなってきているようです。
おそらく毒性云々よりも加工することでおいしくなって、保存もしやすくなることの利点が、その場で食べてしまうことの欲求よりはるかに勝るのでしょう。
隅田川に架かる清洲橋は下流の永代橋とセットで設計された昭和初期の産業遺産。
国の重要文化財にも指定されています。
優美なシルエットは現在の建築群の中にもよく溶け込んでいます。
美しいシルエットと強固な構造、そして永代橋との見事な対比。
たいへん素晴らしい橋です。
しかし惜しいことに、これだけ立派なものを作れるようになった技術の著しい発展は、その後すぐに起きた戦争をより悲惨なものにしてしまいました。
清洲橋には罪はないのですが、技術も産業も常に社会に対する大きな責任を負っているものでしょう。そして産業社会を構成するすべての人間が、同じ責任を背負っていると常に自覚していかなければならないでしょう。
その自覚を忘れないためにも、歴史とともにこれらの遺産は守られなければならないでしょう。
こちらは下流にある永代橋
そして清洲橋と永代橋の間に架かる首都高速・隅田川大橋
以前は草津駅前の飲み屋と言えば、居酒屋の「壺」、焼き鳥「大吉」、西口の「養老乃滝」など、おじさんくさい限られた場所しかありませんでしたが、近年はシャッターを降ろした商店街の店々が次々と新手の飲食店に変わって、夜が賑やかに様変わりしています。
おしゃれなお店やおしゃれなだけのお店やおしゃれでもおいしくもないお店、居酒屋、焼き鳥、立ち飲み、お好み焼き、海鮮、寿司、カラオケ、近江牛、地鶏、ちゃんこ、牡蠣食べ放題、バル、カフェ、場末のスナック、ガールズバー、ショットバー、並んでも入りたいお店や頼まれても入りたくないお店など、各種揃っています。
新しいお店の新陳代謝も多くて、夜の草津駅前は半年ごとに風景が変わっていく感じです。
10年ぶりくらいにこの場所を訪れた人は、降りる駅を間違えたかと思うでしょう。
JR草津駅は、隣の南草津駅と並んで乗車客数の多い場所です。
(JR西日本で30位以内。大阪のユニバーサルシティより多い。)
草津駅前周辺は昔から東海道と中山道の分岐点として発展した町なので、サービス業が栄えるポテンシャルはあったのでしょう。
草津市は、日本においてはすでに少数派になってしまった、人口増加の続く地域です。
特に駅周辺の人口密度は年々高くなっており、マンションも高くタワー化して、古びた木造住宅を見下ろしています。
そして現在もまた次の再開発タワーが建設中です。
数年後のこの場所では、再開発された新しい飲食店と新しい住人たちによる、まったく見知らぬ夜が繰り広げられているかもしれません。
『「近代」の意味』
桜井哲夫 著
1984年刊 NHKブックス
近代の産業化と個人の教育はセットで進展する。
産業の規格化が、個人を規格化する教育を促し、
同じ規格品である個人の平等が成立する。
人間社会が産業の機能と見なされていく時、
それまで機能していた社会の階層構造は分解されなし崩しになる。
近代において規格外の存在は不良品として排除される。
その圧力は若者を自殺へと追い込み、
社会を少子化させる。
平等の暴走はテロや革命の発端にもなる。
「俺があいつでないことが憎い」という強烈な歪みが
均質な近代社会の周辺で生まれる。
近代社会の特徴は、そのシステムが自らを加速させる構造に
なっていることではないだろうか。
宗教が規範であった社会においては、人間の感情も余剰生産物も
現世である社会の外の神の世界へ拡散して霧消したのだろうけれど
神のいない世界ではそれらのものは社会の中に止まり、
社会の動きを加速させるエネルギーとして再び使われる。
それは回生ブレーキのようなものか、
それとも高速増殖炉のようなものかはわからないが、
いずれにしても社会の構造そのものが、
その構造と同じ方向へと技術を導いていくように思われる。