石山寺でおこなわれている「梅つくし」
境内には100点の盆梅が飾られます。
3つの梅園の400本の梅も次第に開いていきます。
澁澤龍彦の『フローラ逍遥』という本には、梅についてこう書かれています。
「梅の花とくれば、ただちに的礫という形容詞が思い浮かぶ。テキレキと読む。物があざやかに白く光りかがやくさまをいう。」
冴えて空気の澄んだ朝に見る白梅は確かにそんな印象です。
京都芸術デザイン専門学校の生徒さんたちを迎えての
インターンシップの様子。
企業に赴いて、事業内容を理解し
それを会社案内などのデザインに落とし込むというのが
今回の課題です。
はじける笑顔?
マッサンとモッサン。
弊社の場合、
ギフトという形の定まらないものの
SPから冠婚葬祭までを幅広く手掛け
取扱製品も多岐にわたるので
なかなかイメージをまとめるのが難しいところです。
ちょっと気取ってみた。COCO。
目ヂカラ自慢のチーちゃん。
この薬は「アポトキシン4869」とのこと。
さすが発想がどっぷり「コミック・イラストコース」?
班長は背の高い爽やか系。駆け抜ける青春ユーキ。
これから3週間。みんなでガンバロー!
清澄白河にある深川江戸資料館。
天保年間の深川の町が実物大で再現されています。
「資料館」という名前ですが
時代劇のセットかテーマパークのようです。
ついさっきまでそこに住民がいたかのような
凝った作り込みがされていて
住民の一人一人のプロ―フィールも
ちゃんと設定されています。
江戸の下町に迷い込んだかのように感じさせる精巧な仕掛けです。
一日の移り変わりが音と光で再現され、
ボランティアの方々の丁寧な説明を聞くことができます。
今から見ればほぼスラムという感じもしないではありませんが、
それは巨大新興都市としての江戸の宿命でもあったでしょう。
戦の時代が終わった江戸時代には
武士にはやることがなくなりました。
「武士」という身分だけが残って
武士としての役割は消滅してしまいます。
彼らは仕事の無い一方的な「消費者」となります。
永遠の年金受給者というか生活保護世帯というかが
一斉に世の中に出現したことになります。
本来なら農村に寄生するだけの存在に成り下がった武士は
世の中から消滅してしまってもよさそうなものですが、
社会は全く別の力学、大いなるトリックで動かされます。
そこに起きたのは<消費革命>です。
消費するだけの武士に農村と町人が供給し
町人たちは二次消費者として都市を形成します。
ただ消費するだけけ何も生産しない武士という階級は
消費のプロとして消費を管理する支配階級に転じます。
消費を中心とした巨大都市が
いつの間にか世の中の中心になっていたのです。
世界の図と地が入れ替わるかのような驚愕の大仕掛けです。
需要が停滞すれば火事を起こして復興需要を作る。
意味もなく喧嘩をして無駄に時間を消費する。
火事と喧嘩は巨大消費空間である江戸の華だったのです。
ちょっとおもちゃっぽいというか工作っぽい印象のあるこの橋は
明治11年に工部省赤羽分局によって製作された
日本初の国産鉄橋であり、国の重要文化財です。
元は八丁堀にあったものが、昭和4年に
現在の富岡八幡横に移設されたものです。
架けられた当時は文明開化のシンボルだったとも言われますが、
今見ると近代化のための<試作品>という感じです。
強度計算が不十分なため無駄な部分が多くなり、
雑然として洗練されていない印象になっているのかもしれません。
このちょっと稚拙な感じのする橋を
身長150センチ台の明治の職人たちが
手作りしている姿は
ファンタジー映画に出てくるドワーフたちと
イメージが重なり微笑ましくもあります。
継母にいじめられるかわいそうなお姫様のために、
7人の小人たちが一晩でパパっと作った小さな橋。
ちょっと不格好だが、心優しいお姫様は
「まあ、なんて素敵な橋でしょう!ありがとう。」
とお礼を言いましたとさ。。。めでたし、めでたし
橋の下では猫が飼われていたり、
近くに幼稚園があったり、
地元の人たちの便利な抜け道だったりするこの場所は
最近は殺人事件の現場付近ということで
突然脚光を浴びたりしましたが
生々しい事件現場にはそぐわないレトロさです。
隅田川につながる運河である小名木川に架かる萬年橋。
今から150年以上前、まだこの橋が木製のアーチだった頃、
この場所は浮世絵に描かれて人々を魅了した江戸の名所であった。
(葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」)
(歌川広重 名所江戸百景「深川萬年橋」)
北斎が1830年代、広重が1850年代のものである。
大胆な構図に青い空と水面、人々の往来、そして冨士。
ともにジャポニズムの代表的な浮世絵であり、
ここが江戸の人々にとって重要な水路であり
親しみのある場所であったことが感じられる。
浮世絵を通してかつて世界的に有名であった場所ともいえる。
水路としての実用性と、風物としての情緒性が
一体となって庶民の生活に溶け込んでいた場所といえるだろう。
現在の橋は、昭和の初めに震災復興計画の一部として
架け替えられたもので
隅田川周辺のレトロモダンな風景のひとつである。
浮世絵のような富士山は見えないが、
ここからは「ケルンの眺め」と呼ばれる
清洲橋の流麗な姿を見ることができる。
今は北斎の浮世絵ほどの交通量はなく、
小名木川を船が通過することもないので、
わりと閑散としていて
タクシードライバーや水鳥たちの休憩所や
ドラマの撮影場所として名所になっているようである。