『帝国の昭和 日本の歴史23』
有馬学 著
2002年刊 講談社
技術革新、量産技術、大衆化、身分階層の崩壊、都市化、個人、
徴兵制度、マス・メディア、モダン、民意、国民感情、
食糧生産性向上、植民地、農産物価格下落、人口増加、
国家総動員、総力戦、新興勢力、革新官僚、戦争
といった大きなキーワードを組み合わせ並べ替えて考えてみる。
日本の場合、黒船などの外圧があり、それに対抗するために
身分の垣根を壊す官僚制度が作られた。
そこから近代技術の大量導入が起き、生産力と人口が増えた。
その人口と生産力は兵力の増強のために使われた。
満州に進出した時点でそれまでの拡大路線は行き詰まったが、
国内ではさらに近代発展路線は進んだ。
巨大で効率的な近代産業を従えた巨大で効率的な都市に、
農村社会からも身分制度からも切り離された個人が集積し、
それを量産化したモダンメディアが先導することになる。
そこに現れる国民感情は右に左に膨張し、
暴動・弾圧・テロ・クーデターが起き、
まとまりきれないまま最終的に大政翼賛方向に流れた。
これが日本におけるナショナリズムである。
そして抑えられない奔流の個別勝手な解釈と行動が
より先鋭な奔流へと精製、精錬、結晶化し、砕けた。
- 第1章 普通選挙と政党内閣
- 「弁士は静量を保持するために禁酒すること。演壇で水を飲まぬこと。
しかし声はそれでも嗄れるであろうが、その時は押し切って、
一旦つぶして真の声を出す位にせねばならぬ」 - 「内閣が変わり、内務大臣が代ると、地方長官の更迭ということが
つき物であった。それは地方官が、時の政府のため、その党派のために、
非常に偏ったやり方をするからであった。」
←若槻礼次郎 - 金融恐慌は結局のところ、第一次大戦中に急成長した企業が、
慢性不況下での経営悪化にもにもかかわらず、
救済的な融資で問題を糊塗してきたことによるものである。
- 第2章 ワシントン体制の変容と日本
- 依然として不透明な中でも、中国のナショナルアイデンティティは
1920年代半ばに大まかな枠組みを与えられた。
<反帝>という枠組みである。 - ここにいう合理化とは何か。それはドイツを中心に世界的な
潮流となりつつあった、企業の合同やカルテルの結成などを通した、
産業全体の合理化を目指すものである。
←1930年
- 第3章 「挙国一致」内閣の時代
- 満州事変勃発後に、さまざまなメディアによる報道が、
国民の熱狂的な支持を創り出していった
←「生命線」松岡洋右 - 「この際各政党の首領、軍部の首脳者、実業界の代表者、
勤労階級の代表者等を集めた円卓巨頭会議を開き、
其の総てが階級心や私心を去り、虚心坦懐に真に・・・」
←美濃部達吉 - 一般に高橋財政として知られる経済政策は、
円の為替レート低下を放任し、低金利を維持し、
政府の財政支出を激増させたこと - 1930年代の後半に、日本経済は鉄鋼業を基軸とする
重化学工業を中心とした産業構造に転換をとげたのである - 満州事変の拡大を重要な契機としながら、
軍需産業を足場に、重化学工業の分野で
いわゆる「新興財閥」が急速に成長していった。
←日本産業(日産)、日本窒素、昭和電工、
理化学研究所(理研)、中島飛行機 - もともと世界的にも、1920年代の後半から
農産物の過剰は慢性化していた。
日本の場合、植民地(朝鮮)産米の流入によって米価が下落する一方、
アメリカを中心とする生糸の価格低下のために繭価も下落していた。
←戦前の日本農村を支える二つの柱が下落。農村不況。 - 1932年から3年間でおよそ8億円程度の土木事業を行い、
農民に現金収入を得させようという計画 - 「凶作ならまだしも、凶作ならざる農村に、食うべき食糧がない、
とは何たる矛盾の甚だしい世の様だ。いま農村には食うに困るものが
簇出している。山の木の葉を取って来て食ったり、
豆腐の粕(おから)で飢えを凌いだり、犬や猫を殺して食ったり、
フスマで命を継いだり、植えつけたばかりの馬鈴薯を掘取って食ったり、
蕨を取って来て食ったり、或は食料を盗み合ったり、
欠食児童の弁当ドロが行われたりしている。何たる姿だ。
宛ら餓飢道の観を呈している」
←『日本農業年報』1932 - 「農業は肇国の初めから神聖な仕事であって、
これを貨幣経済的に取り扱い分析するのは間違いである」
という類のイデオロギー的農業論客
- 第4章 「非常時」の表と裏
- 中央線がすでに「正確に4分時をはさんで発着」しており、
新宿駅は他の駅のようにラッシュアワーの時間のみ混雑するのではなく、
「未明から夜更けまで、間断なしの群衆の洪水」
←『新版大東京案内』今和次郎 1925 - 「大正の初期には、新聞社の方から、大学の方へ
優秀卒業生を貰いに行っても容易に来手がなかった。
しかるに、今では千人の受験者が殺到し、
その中から数人を選抜するようになった。」
←『新聞生活22年』伊藤正徳 1933(昭和8) - 「あのときにはじめて農民下層の家まで新聞が入りましたね。
家族や親戚の者を兵隊として送っている郷土部隊の活躍がのりますからね」
←満州事変の報道合戦
←『シンポジウム日本歴史21 ファシズムと戦争』遠山茂樹 - 「モダン層」とは何か。
それは「末梢的消費的先端」としてのモダンを生きる、
「没落した中産階級であるところの有職無産階級」である。
大宅によれば、彼らは「映画と、ジャズと、ダンスと、
スポーツを通じて輸入されたモダニズム」を生きるものである。
←大宅壮一 - 「理想も道徳も感激もない世界」すなわち「感覚の世界」
←「モダン層が形づくるモダン相」 大宅壮一 - 「モダニズムには「昨日」もなければ「明日」もない。
あるものはただ人工的刺激によって
強く感覚に印象されるせつながあるばかりである。
「昨日」は記憶から駆逐しなければならない悪夢であり、
「明日」はそれ自身なんの魅力をも約束しない砂漠である。」
- メディアの技術革新をともなった変化の先端表現は、
ナショナリズムにも左翼のスローガンにもなじむのである - これらの雑誌がいずれもドイツの構成主義や『ライフ』と並んで、
ソ連の対外宣伝誌『USSR in construction』に影響を受けている
←『FRONT』など - ナショナリズムの新しい形式による表現が、
社会のさまざまな側面を覆いつくした - 事変の以前においては、ともかくも事実であっても
不合理で危険なものであった「国民感情」が、
「生活権」と言い換えられることで、
誰にも批判できない正義に転換していくからである
←国民生活救済 - 外に国民の生活権確立←満州・生命線
- 第5章 革新の光明?
- 日本農業を呪縛し続けた<土地>問題の解決。
これこそ満蒙移民が特異な情熱を吸収できた根拠であった - 組閣時に45歳であった華族政治家に
新聞がつけた見出しは、「青年宰相」
←近衛文麿 - 「東亜新秩序」建設の意義を主張しながら、満州国の承認、
共同防共、経済提携の諸点について日本側の要求を具体的にあげ、
日本側の真意は、「区々たる領土」や「戦費の賠償」を求めるものではなく、
また「支那の主権を尊重するは固より、
進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し
且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払うに吝ならざるものである」
←近衛声明1938 「聖戦」イデオロギー - こうして戦争は日本の労働者、農民のみならず、
アジアの被圧迫民族をも解放する「聖戦」となるのである。
日中戦争を「聖戦」、すなわち旧来の帝国主義的戦争ではなく
解放戦争であるとする立場が、
国内の「革新」、すなわち資本主義を打倒して
労働者・農民の生活を改善する変革であるとする立場と、
セットになっている - 「本来西欧的な帝国主義ではなくして、防衛又は開発の為めの地域主義」
- 「志那事変の世界史的意義」は、「近代の超克」という役割を与えられる
←東亜の近代化が資本主義を超えた新しい制度を目指す - 「戦争は社会主義を促進する」←バーナード・ショウ
- 日本の戦時体制とは、このようなテクノクラート的知識人に
活躍する場を与えた。彼らがかかわったのは「国策」であったが、
それが政策手法としての「調査」や「計画」という理念の成立と
一体であったことは重要である。 - 「電気動力こそ、資本の無政府状態を徹底的に掃蕩しようと意欲し、
そして人間が疎外された自己を取戻すところの社会を
実現しないではやまない物質的な力ではあるまいか」
←笠信太郎『準戦時統制経済』
←進歩に対するオプティミズム - 「共産主義とはソヴィエト権力プラス電化である」
←レーニン - (分立主義は)必然的にどの国家機構も他に優越できないシステムである。
そのため、天皇が能動的に統治行為を行わない以上、
権力分立を避けるための憲法に規定されない実質的な統合者を必要とする。
帝国憲法とはそれ自体が、「幕府的」存在を必要とするという逆説が存在した
←三谷太一郎「政党内閣期の条件」
- 第6章 総力戦の諸相
- 大戦を通じて「反植民地主義」の貫徹を期すアメリカにとって、
日本の「民族解放」政策は警戒と憂慮の対象となりうるのであり、
それは同時に植民地宗主国としてアジアへの復帰をねらう
西欧諸国とアメリカの間に、軋轢が存在することを示す - 戦時議会といえども、すべての言論が封殺されたわけではない。
東條内閣に対する議会の反撥は、旧政党人と国家主義団体との
共闘という形であらわることになる
- 終章 「戦時」とモダニティ
- 「国防婦人会については、いうべき事はあるが、
然しかつて自分の時間というものを持った事のない農村の大衆婦人が
半日家庭から解放されて講演をきく事だけでも、これは婦人解放である」
←市川房枝 - 「時間さえくれば金になるんだから。
昼間がんばってしまえば昼間の給料だけなんだけれど、
ぶらぶらしてて、夜まで仕事残せば残業になって二割五分増しとね」
←戦時期の徴用工制度についての職人的板金工の証言
“『帝国の昭和 日本の歴史23』 有馬学 著 2002年刊 講談社” への1件のフィードバック