『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』
河野康子 著 2002年刊 講談社
戦後から55年体制終焉に至るまでの現代政治史である。
この時代は歴史と呼ぶには近過ぎるようでもあり、
遠い過去の事のようにも思える。
ここに登場する政治家はほとんどが既に引退されているか
もうこの世にいらっしゃらない方ばかりである。
その点において過去である。
しかし、それにもかかわらず
最初の公約から40年近くが経って、
その間に与野党が連立したり逆転したり
何度も何度も何度も内閣が変わっても
消費税は依然として鬼門のままである。
そして財政再建は今に至っても
まだ延々先送りされ続けている。
この停滞はあまりに長く理屈に合わないものである
高度成長終焉後の日本の政治は、
もしかしたら何かとても大きなものを
見落とし続けているのだろうか。
日本の古式に則って、この呪いを断ち切るために
消費税を祀る神社を建てるべきかもしれない。
政治家が増税に触れると疫病に罹って再起不能になってしまう。
ならば神様の御神託だと言うしかないだろう。
大蔵省というかつての神様に代る神様を勧請するのである。
以下、本文より・・・
- 第1章 復興期の政党政治
- アメリカ側は「日本がホーム・マーケットが狭い、
というけれども、それは全く考え違いの議論だ。〔中略〕
今後、帰ってくるものをいれたら8000万人の人口がある。
今後、経済を民主化し、労働組合ができて、
労働者の生活が向上してくれば、
国内市場はどれほど拡大するかわからない」 - 1946年2月の自由党緊急全体会議で確認されたのは、
金融安定化と生産増加を実現した後に、
自由経済を復活することであった。
つまり自由党は、戦後ただちに自由経済への復帰を
求めていたわけではなかったのである
- 第2章 国際環境のなかの講和と安保
- アチソン国務長官は、対日講和外交にとって
障害となった存在として、次の4者を挙げている。- 1.コミュニスト(ソ連)
- 2.ペンタゴン(アメリカ国防省)
- 3.同盟国(イギリスを含む英連邦諸国)
- 4.旧敵国(日本のこと)
←妥協が容易だったコミュニストと手強かったペンタゴン
- 日本の貿易赤字を埋めるにあたって用いられた財源は、
アメリカ陸軍省が連邦政府に要請し獲得した
対日援助予算であった。
- 1953年(昭和28)3月1日に衆議院予算委員会を通過しながら、
「3月2日までに予算をあげよ」と指示した首相自身による
「バカヤロー」の一言で、国会解散となって成立せず、
新年度から数カ月を暫定予算でしのぐこととなった。
この予算編成の変則化のなか、自由党は、予算案をすべて事前に
党の政務調査会と総務会で決定することを原則とするよう、
政府に申し入れていた。これが、池田内閣期に制度化して今に至る、
法案の事前審査制確立の契機となる。
- 第3章 変貌する戦後
- 年率10%台の成長が続けば国際収支の周期的な赤字がいずれ解消すると、
下村は予想していたのである。これが下村の言う、拡大均衡であった。
←下村治 - 日本経済が成長の軌道に乗ったことがほぼ明らかになった1963年、
日本はGATT12条国から11条国へ移行した。
これは、国際収支上の理由で輸出入制限をしてはならない、
という義務を受け入れることを意味するものであった。 - 見方を換えれば、対米外交を基軸に据えることは、
国際社会復帰への近道として重視せざるを得なかったともいえる。
- 第4章 政党再編への胎動
- 1965年の調査によると、自分を「中流」であると考える人々が、
調査対象の86%にのぼった - 政治との関連から注目されるのは、人口の大量移動現象である。
つまり、農村から都市とその近郊へ大幅な人口が流入したことが、
消費を押し上げて成長の要因となっていた。
1970年代初頭に入って、そうした都市への人口流入現象が終わり、
その結果として成長率の伸びが緩やかになった
←高度成長の終焉要因 吉川洋 - 1989年(平成元)参院選では、
自民党は過半数127を割る109議席にとどまり、
その後1993年(平成5)、宮沢内閣のもとで解散 - 総選挙となったとき、
自民党は223議席と、衆院でも過半数を大きく割り込み、
政権を離れることになる。 - このように1970年代から90年代への時代は、
自・社両党間に第三諸政党が出現、その動向が次第に自律性を持ち、
国会審議会の場で影響を持ち始める。
このような意味で、1972年の第一次田中内閣から
1993年の宮沢内閣までの時期は、
1955年(昭和30)に形成された二党制の枠組みが、
再編期に入ったものと考えることができよう。 - 1972年6月、田中自身が佐藤内閣期の自民党幹事長の頃から、
ブレーンとともに構想してきた列島改造論が、
自民党総裁選への立候補に際して『日本列島改造論』となって出版された
←都市から地方への工業再配置。交通ネットワークの整備 - 第一次田中内閣期の昭和48年度予算は、超大型予算となった。
列島改造予算として、公共事業関係で32%増となっただけでなく、
社会保障関係で29%増となったのは、
支持率低下と選挙の不振を背景に実現したのである。
かくて1974年(昭和49)自民党大会は、
「福祉国家建設」を掲げることになる - しかし予想に反して、投票結果は自民党の惨敗であった。
248議席という結果は、全議席数511の過半数を割るものとなる
←1979年 第一次大平内閣 一般消費税導入公約 - 「増税なき財政再建」を掲げ、直接税減税と引き換えに
間接税増税が容認されることとなった。
さらにこの臨調では、三公社(国鉄・電電・専売)の
民営化方針を打ち出した
←1982年(昭和57) 第二臨時行政調査会 土光敏夫 - アメリカは1960年代から貿易収支の黒字幅が縮小し、
1970年代に入り、ついに貿易赤字を記録する事態となっていた - 1973年(昭和48)2月には、日本を含む各国が
再び変動相場制に移行した。 - 1960年代の貿易自由化以来、1970年代に入って日本の産業構造が、
輸出依存度を高めていった - 1960年(昭和35)から75年にかけて、
貨物輸送に占める鉄道の割合は39%から13%へ、
トラックの割合は、8%から35%にそれぞれ変化した - 75年6月、国労は順法闘争としてストライキを打ち、
これにより北海道から東京へ送られた魚が腐敗、
大量に処分された事件が報道されている。
水産業者は、これを契機として輸送手段をトラックに切り替え、
損害賠償を求めていた。 - 8日間の鉄道運休による被害について、
政府は国労に対し202億円の損害賠償を求める訴訟を起こした - 社会党もまた、農村の支持基盤に依存していた。
自民・社会両党と農林省は、コメの政府買入価格と
小売価格との調整によって農家の所得を保障する、
という保護農政の支持者である点で、一致していた - 1980年代後半、アメリカが日本の貿易収支の黒字解消を
強く迫ったことが、自民党の支持基盤を揺るがすことにつながった。 - 1990年(平成2)に妥結した構造協議では、
大規模小売店舗法(大店法)などについての規制緩和が合意された - 戦後の大蔵省は長い間、財政均衡主義を守ってきた。
この均衡が破られたのは1966年(昭和41)春、
昭和41年度補正予算で初めて建設公債が発行された時であった。
いわゆる40年不況のなか、税収の不足を補うものとして
公債発行が行われたのである。 - 大蔵省主税局は、税の不公平が実在するかどうかには触れず、
直接税に依存した現状では、とりわけ一般サラリーマン層に
不公平「感」があることを認め、ここから、従来の所得課税重視から
消費・資産へと課税ベースを広げることを主張するようになった。
←1987、88(昭和62、63) - 国連創設以来初めて米・ソ両国の一致により、
イラクに対する武力制裁を決定した。
←1990年 湾岸戦争 - 55年体制は、ある一面で、壮大な平等化装置として作用し
日本社会を作り変えたのではないだろうか。
この点で、社会党と自民党は相互に協調し共存していた。 - 偶然にも55年体制成立と同時期から始まった高度成長は、
自民・社会両党の足元を掘り崩しつつ進行する。
労使間が対立より協調に向かい、労働勢力が社会党固有の支持層を
再生産しなくなったことで、まず社会党議席の減少が始まった。
続いて、高度成長の受益者であったはずの自民党は、
しかし、経済大国化の渦中で内外の重要課題に直面、
統治能力を消費し尽してゆく。そして、両党の中間に、
新たな中道勢力が現れ連立政権が続き、政党政治は再び再編期に入った