『テラスで読む 日本経済の原型』
原田泰 著
1993年刊 日本経済新聞社
<テラスで読む>という軽めのタイトルのわりに内容は堅いです。
リビングで読むよりもさらに堅くて、
レント・シーキングなどという経済用語が出て来た時点で
書斎に片足を突っ込まないと読めなくなります。
後に文庫化された時には『世相でたどる日本経済』という
タイトルに変更されていますが、内容からはさらに遠ざかっています。
映画の話なども出てはきますが、それはおまけ程度です。
中心となる内容は、戦前と戦後経済の断絶、
そして戦中期と戦後経済の連続性の批判的な分析で、
1990年代に多く発表されていた議論に連なるものです。
戦中期と戦後経済の連続性という見方は
おそらくバブル崩壊の原因を探る中で浮き上がって来た論点でしょう。
バブル崩壊を全体主義による経済敗戦とする見方で、
そこから経済をもっと自由化すべきだということになり、
後の金融ビッグバンの動きに合流していきます。
著者は日銀の審議委員にも就任されたエコノミストで、
ヒトラーの財政政策を正当化するコメントを述べたとして
最近見事に<炎上>された方です
<ヒトラーが行った正しい経済政策>と言わずに
<ヒトラーに利用され効果を発揮した経済政策>と
ちょっと遠回しにすれば
非難を免れたかもしれません。
以下、本文より・・・
1 日本の成功
- 1926年には切符の自動販売機が上野駅に設けられ、
現在のJR上野―桜木町間の列車ドアが自動的に開閉するようになった。 - 1927年(昭和2年)には上野―浅草間に初めての地下鉄が走った。
2 江戸のマーケットメカニズム
- 鎌倉武士の成立以来、私的所有権の尊重は日本の国是となった
←源頼朝による土地所有の安堵 山本七平『日本人の都市神話』1990 - 豊臣秀吉の太閤検地による石高制によって、
大名や家臣の領地は石高という「量」で表現可能な領域になり、
不変で特定の領地ではなくなった。
そのことを最終的に実現したのが江戸の封建制である。
前田家は加賀の領主であるよりも100万石の領主なのであり、
伊達家は仙台の領主であるよりも62万石の領主なのである - 生産性の「上昇部分をだれが取るかが、江戸時代における、
静かだが最大の『闘争』だった」と言っている。
領主はこの闘争に敗北し、利益は農民と商人の手に落ちた。
←速水・宮本 - 教育の普及度は高く、寺子屋の数は5万とも言われ、
維新当時男子の43%、女子の10%程度がその教育をうけた
3 開国と維新のインパクト
- 攘夷を主張していた勤皇派が、後述するように
開明近代化政策をとるのは不思議 - 江戸時代においても、養子制度等の活用によって、
ある程度職業選択の自由はあったが、それは近代産業の
必要とする大量の人的資本への投資の必要を満たすものではなかった。 - 封建的権利を金融的債権におきかえる
←近代的土地所有権の確立 - 封建制度の下では、その所得は伝統的な生活スタイルを維持するもの
―築城、工芸的武具等々―に費消されるしかなかった。
しかし、封建制度の撤廃により、その所得を
自由に投資することができるようになった。
そして、そのための投資機会は、欧米先進国との接触により、 無限に広がっていた - 明治政府は、1873年に地租改正を断行した。
その要点は、土地の収益価格を課税標準とすること、
武士ではなく多くは農民である土地所有者をもって
納税義務者にすること、物納を廃して金納とすることであった。 - ここに地主は土地の完全な所有権者となり、
土地利用の制限は撤廃された - 領主が商品作物の栽培を嫌い、
作物を原則としてコメだけに限ったのは、 カサがあって隠匿が困難であり、
保存ができ、生産量をつかみやすいからであった - 1800年以降に、人口増加が見られたことから、
徳川時代にも経済発展があったと言われているが、
その「成長率は1%程度に過ぎない。
2%以上の成長は、幕末にとられた開国と、 その後の明治維新の経済改革のゆえである
4 アジアのイギリスを目指して
- 維新政府の歳入のうち、紙幣発行によるものは
18.1%を占めており(1868~75年平均)、
政府財政はまったく弱体であった。 - 戦前の日本こそ純粋に自由貿易国であり、
戦前のアメリカは高関税国であった
・制度の導入としては、近代的私的所有権制度、
徴税システム、自由市場制度、自由貿易、金融制度など、
前述した通りであるが、さらに指摘すべきは
株式会社制度の導入である - 限定責任の株式会社制度が日本に導入されたのは
1893年であるが、19世紀の末には、
同時期の西欧諸国よりも多くの株式会社が設立され、
より多くの資金が株式市場を通じて集められたという
←大島清『日本恐慌史論』 - 殖産興業政策というと、官民模範工場の設立がすぐ思い浮かぶが、
当時の人々は、殖産興業の基本はインフラであると正しく認識していた - 「革命」が「下から」のものではなく、「横からの革命」
←永井陽之助 西欧列強の姿からの革命 - 政府はレント・シーキング活動を受け入れて
国内市場を保護することはできる。しかし小国では市場は狭く、
レント・シーキング活動によって得られる利益は限られている
5 繊維が支えた工業化の成功
- 軽工業のうち、食料品、繊維、製材、窯業、印刷・製本は、
1890年から1920年にかけて、
それぞれ2.7倍.5.0倍、2.3倍、6.3倍、20.9倍に成長した - 欧米から導入された新しい生産技術を日本の状況
(低い労賃、高い資本財価格)に適応させる努力は
むしろ民間の企業家によってなされた。
製糸(繭から糸を取る)業でいえば、諏訪の中山社は
すべての設備を近隣の大工、鍛冶谷に造らせ、
木に替えられるところはすべて木材を用い、
繭を茹でる釜を陶器にして極力、鉄を使わないようにした。
その結果、富岡の官営模範工場が
300釜で19万円余の設備費を要したのに対して、
100釜の中山社の設備費はわずか1900円になったという。 - 大阪紡績株式会社工場長の山辺丈夫は
1883年に2交代の24時間操業を始める。
初めは石油ランプで操業するが、燃えやすい綿糸のなかで
石油ランプを灯すのはあまりにも危険なので、
すぐさま電灯に変えられた。
エジソンの発明以来わずか6年後のことであった。 - 綿工業の初期の発展において、外部との接触によって
これまでの伝統的器械に簡便な改良が加えられ、
それが極めて効果的であった - 絹は、当時の世界的産業であり、ライバルは中国とイタリアであった。
日本が生糸の輸出において世界一となるのは、やっと1909年のことである。 - 明治維新以前の日本の最大の製造業は綿工業である。
当時、綿原料は国産であり、綿花は国内で栽培されていた。 - 払い下げの経済効果を過大評価すべきではない。
払い下げを受けた企業の業績は概して振るわなかった。
その原因としては設備規模が過小であったこと、
動力として水車が使われたが河川の渇水期には
操業が困難であったこと、
水力利用や国産綿花を原料とする方針によって
工場立地が限定されたために
労働力調達や製品販売の面で支障が生じたこと、
技術者が不足したことなどが指摘されている - リング紡績機は生産性の面からミュール紡績機より
明らかに優れていたが、日本におけるその転換は
国際的にも例がないほど徹底的で急速なものだった - 1896年には、綿作農民の反対によって継続されていた
綿花輸入関税の撤廃も実現した - 明治初期(1868~70年)には、
生糸、蚕卵紙合わせて日本の総輸出額の58%に上った - 96年には、三井物産と提携して
マッチを直接輸出(直輸出)することに成功した。
さらに第一次世界大戦(1914年から19年)には
世界各国への輸出に成功し、スウェーデン、アメリカとともに
世界市場を三分した
←兵庫県のマッチ
多くの開発途上国が作るものは「高かろう悪かろう」なのである。
日本が工業化の初期に成し遂げた「安かろう悪かろう」の
素晴らしさを評価し、なぜそれができたのかを探求する必要がある。
音程も合わないオルガンを平気で作り、
しかも一カ月の勉強できちんと音が出るようにしたとは
素晴らしいことではないか - 有限責任の原則のルーツを近江商人のベンチャー企業にたどり、
所有と経営の分離のルーツを徳川時代の大商人慣行に求めている
←宮本又郎 - 1898年の紡績会社63社のうち23社以上において
株主は300人以上で、20%以上を所有する株主は稀であったという。
こうしたことが株主の支配人、技師長任せの態度を生んだのであろう - 作物の多様化を農業発展のために高く評価し、
これが明治維新の田畑勝手作、土地売買の公認・地券交付などの
一連の制度改革によって促進された
6 市場経済への批判始まる
- 市場経済の下では彼の状況は彼自身の行為によるものであるから、
自身を恥じなければならない。
このような状況をうとましく思う人々が、
反資本主義的または反市場主義経済的な感情を持つにいたる
←ミーゼス、越後和典『競争と独占』 - 細い糸を切れ目なくひくことにたけた工女の中には、
日露戦争の最中、年に100円稼ぐものもあったという。
当時100円といえば普通の平屋なら2軒、
上等の二階建てを普請しても一軒建てられる額である。 - 「試みに伊国工女の労働する実況をみるに、
午前5時よりその業につき、午後10時に至りて初めて業をやむ。」
←世界一の製糸国イタリアの事情 1897年 - 要するに、1885年から1900年まで、
実質GNPは6割も増えたのだか、
うち2割は人口増加に吸収され、賃金の増加は1割に満たなかった。 - 日本において非農業の女性就業者に占める
お手伝いさんの比率は17.5%であった
←1930年
←英11.4%(1854年)、米15.2%(1910年)、
タイ14.7%(1960年)、フィリピン34.3%(1975年) - カトリックはつねに反資本主義の思想を表明してきたし、
仁愛による必要物の分配を掲げた社会主義は
マルクス主義以前の古い歴史を持っている。 - 「あの人情に厚い田舎の生活―そこでは隣人と隣人とが親類であり、
一個人の不幸や、幸運や、行為がたちまち郷党全体の話題となり、
物議となり、そしてまた同情となり、祝福となり、非難となる。
―我等はむしろ都会の生活を望むであらう。
そこでは隣人と隣人とがお互いに知らず、個人の行為は自由であって、
何ら周囲の監視を蒙らない。げに都会の生活は非人情であり、
そしてそれ故に、いかに奥床しい高貴の道徳に適っている」
←萩原朔太郎 - 人情に厚い田舎の生活とは「恩威情実の政」の下の生活であるが、
非人情な都会の生活では「一毫も貸さず一毫をも借らず、
唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む」(福沢諭吉)
ことが可能 - 政治家の富が、権力の行使によるものか否かにかかわらず
悪いものだとする日本の風潮は西欧の正統的な政治思想とは
まったく別物である。 - 現実に世の中を動かしている人々は、
社会主義の必要がどこにあるのかを知っていた - 驚くべきことに、アメリカの独禁法の経済効果は、
中小小売店を守るために制定された日本の大規模小売店舗法と同じ - 「輸出国の国内価格よりも低い価格で輸出することによって、
輸入国の産業に損害を与える恐れがある場合には
輸入国はその差額分の関税を課すことができる」
←アンチ・ダンピング条項
←日本ではほとんど適用事例がない - 競争が好きだと公言するアメリカ人も、
実は競争が嫌いなのである。
7 第一次世界大戦後経済の憂鬱
- 関税自主権の回復は、ビッグ・ゲームの結果決められたルールに
反する行動を誘発することになる - 全国一律運賃制の下での鉄道は、
地元に実質的な所得移転をもたらすことになる - 地方的、局地的利益を実現するために地元議員を利用することが、
憲政党の方針を定めた。 - 1901年より10年にいたる固定資本形成のうち、 外資に依存する率は19.2%におよんだ
←日清戦争後の金本位制の結果 - これら外資流入の増大によって、対外債務残高は
第一次大戦の勃発時(1914年)までに19億5000万円になった
←中南米、フィリピン並み - 個々の財政プリジェクトによって利益を得る人々が
その費用を負担しないがゆえに対外債務が増大するという現象 - 重化学工業によって、一家の生計をにない、
一生そこで働く男子労働者が多数出現するようになり、
労働運動も盛んになるようになった。 - 農民運動は、小作権、すなわち、土地所有権を巡ってのものであった。
- 電力の発展は南の指摘するように、中小工場の発展を意味した。
蒸気力の利用は産業の集中化を必然とするが、
電力の利用は多数の競争企業の存続を許すことになったのである。
←工場の動力化。大規模設備不要。小型汎用モーターの大量生産。 - 第一次世界大戦以前から東京電気と芝浦製作所にGEが、
戦後には三菱電機にウェスチングハウスが資本参加し、
ドイツのシーメンスと古河の合弁で富士電機が生まれた。
- 当時の最も重要な産業である農業は、
既存の技術のストックを使い果たして技術進歩が停滞し、
また植民地からの安価なコメの移入との競争に悩まされていた。
8 盛んな都市間競争
- 家臣たちは城下に住むことを嫌がった。
武士は領地にいれば所領の中で自給自足的な生活ができた。
城下に住むとなれば貨幣収入が必要で、その家計を苦しくした。 - さらに下水道が完備されれば、
より多くの人が清潔に暮らすことが可能になる。
地震による高層建築物の制限は、技術が克服した。
都市により多くの人が住めるようになったのである。
こうしてより多くの人を運ぶ交通網と
その人々が働くことのできるオフィスの建設が可能となった。 - 日本の正貨保有高は1920年(大正9年)末には
21億7900万円にまで増加した。
20年当時の日本のGNPは、158億9600万円であるから、
これはGNPの13.7%にも当たる巨額の外貨である。
ところが1930年末には、9億6000万円にまで減少した。 - 当時の帝国主義の慣行を前提とすれば、
もしこれらの都市が償還に失敗すれば、
都市の税収が外国資本の管理下となることが、当然に予想された。 - 1920年代には関東大震災を契機に
東京や横浜が近代都市の形を整え、
それに劣らず大阪、名古屋、神戸も面目一新を図った。 - 大阪市の人口は、1913年の99万人から
25年には211万人へと著しく増加し、当時世界最大の都市となった。 - 区画整理がなされたのは、
行政サイドの要請と地主の経済行動の両方がある。
行政サイドにとっては、一割の土地の現物給付と
上昇した地価への固定資産税収入がある。 - 20年代は農業不況であり、かつ都市化は進んでいた。
地主は、その土地を農地にしておくよりも市街地にする
インセンティブを持った
9 会社人間あらわる
- 終身雇用、年功賃金、企業別労働組合などに特徴づけられた
日本的雇用慣行は、実は1920年(大正9年)代に
大規模近代産業の発展とともに成立したものに過ぎない - 1920年代、30年代は、第一次大戦後の
不況と大恐慌に苦しんだ時代である。
しかしこの時期は、国内交通通信網の整備に伴う
国内市場の拡大、電動力革命、欧米先進技術の
大量導入による大規模工場の成立など、
日本の重化学工業が飛躍的に発展した時代でもある - 戦前の日本的雇用慣行のイデオロギーとして用いられた
イエの思想(いわゆる経営家族主義)も、
同時期に作られたものであって、
農村文化の延長ではなかったという
←速水、斎藤、杉山編『徳川時代からの展望』1989 - (アメリカにおける)このような雇用慣行(←会社組合中心の)が
消滅するのは、1937年施行のワーグナー法(1935年成立)の
合憲判決が出されて後のことである。
ワーグナー法は経営者側が労働者の意思形成に
いくらかでも影響を及ぼすような会社組合、福利厚生制度、
施設の提供を不当労働行為としたので、
1937年以後、これらの制度は急激に消滅した。
←アメリカの「日本的雇用慣行」の崩壊。金融政策の誤り。 - かつてアメリカの工場に勤務した経験のある
日本の電機機械技師は1901年(明治34年)、
①アメリカの職工のほうが日本人職工の2倍は仕事をする
②日本の常用工はとかく監督の目をぬすんで怠けるものが多い
③日本の熟練工はえてして腕をたのんで
怠惰な習慣を持つものが多い
④日本の職工はアメリカと異なり、長期に勤務することを好まない
⑤日本の職工はアメリカに比べて貯蓄の観念が少ない、などと語ったという
←『日本経済史4』尾高煌之助 - 「本来なら、サラリーマンに分配してもよい収益を、
日本の法人は含み資産の増える社宅に回し、
いかにも社員を優遇しているかのような錯覚に陥らせている」
←波頭亮『新幸福論』1991 - 市場社会が非人情なものであることを率直に認めるべきである。
その非人情を和らげてくれるものは福沢において家族であり、
かつ家族として持っている財産である。
しかし、戦後の日本において家族の財産の多くが失われてしまった。
その時、非人情な市場社会から個人を救ってくれるものは
唯一会社となったのである。
10 補助金行政ことはじめ
- 中央と地方の関係は、地方から中央への一方的サービス関係であった。
地方大名の立場からすれば、
地方の従属とは地方の富を中央へ還元することであり、
自立とは地方の富を中央へ還元することを拒否することであった。 - 日露戦争の初期、濃霧で敵艦隊を見失ったと報告すると、
議会であり代議士が「濃霧々々、さかさに読めば無能なり」と演説したという
←司馬遼太郎『坂の上の雲』 - 1870年代末(明治10年代)からの急速な工業化は、
富の特定地域への集中化をもたらした。
農業の富は土地の広さに制約されるので、
農業の生む富は必然的に地方分散的に形成される。
ところが工業の生み出す富は土地の広さに制約されないので、
富は少数の工業都市に偏在的に形成されることになる。
このことは地方の豪農、富農層に大きな不安を与えた。 - 「現在のところ、地方自治は極めて未成熟な段階にあり、
地方団体の財政力を強化し、これとともに、
富裕地方と貧困地方間の財政力をさらに均等化することなくしては、
地方自治の完成を望むことは極めて困難である」
←シャウプ「日本税制報告書」 - 戦前には一つの県の中でいくつかの都市が拮抗していたことが多い。
1920年には函館市の人口は札幌より多かった。
広島市と呉市の人口はほぼ同じであった。
北九州市に当たる5市の人口を合わせると福岡市の3倍近かった。
←戦後、中央の税によらない都市の自立発展が困難に - ドッジは企業間の競争環境を整えることによって日本企業を強くし、
シャウプは都市間の競争を廃絶することによって日本の都市を弱めた
11 金融恐慌の教訓
- 戦前期の日本のように高度に発展していた金融セクターを、
ただ混乱と失敗のイメージで語ることには疑問 - 日本の銀行は、証券業務も信託業務も兼営できるユニバーサル
- バンクだった
- 1901年以来の有名な取り付け時のマネーサプライの伸び率を見てみると、
1920年代の取り付け騒ぎ(20、22、29年)を除いては、
マネーサプライは減少してもすぐに増加している - 流動性リスクとは銀行の預金者の
解約の要望に応じられないリスクを指し、
信用リスクとは満期になっても元本が回収できないリスクを指す - 「(不良貸付が多く、)担保を仮に処分しても
貸付金の三分の一も回収できるか疑問のものが多い」
←1901年以来の取り付けにあった銀行家 - 大戦時の生産拡張のための設備投資に資金を供給した銀行は、
信用リスクに直面していたのであって、
1920年と22年の恐慌時に起きた取り付けは
単なる流動性リスクによるものではなかった。 - 人々の認識を変えたのは、1920年代の金融政策である。
繰り返される銀行救済によって、
人々はリスク資産を安全資産と認識するようになった。
日本銀行は、救済融資を行うにあたって経営内容の改善を求めることなく、
もっぱら取り付けの鎮静化のみを目的に安易に貸し出しを行ってきた。
12 恐慌と体制の崩壊
- 失敗とは、第一次大戦後のインフレーションによって
購買力平価が下落していたにもかかわらず、
大戦前の平価水準で復帰(1930年1月)したことであり、
不運とはアメリカの大恐慌である。
13 現代を縛る太平洋戦争
- 増税はいつの世でも不人気である。
そこで採用されたのが、資金を統制することによって
軍需優先の姿勢を貫くことであった。 - 39年9月には、物価と賃金を固定する「9.18ストップ令」が出され、
以後すべての物価と賃金が公定されることになる。 - 日本は戦争に突入していくわけだが、
それは根本的に矛盾した行動だった。
日本経済は、原料、燃料、中間財、機械設備、技術を
欧米先進国、およびその支配下にある国々に依存していた。
ところが、日本は、当のその依存している国を相手に戦ったのである。 - 取り付けを起こさず、
信用秩序の混乱を起こさないためにはどうしたらよいか。
答えは銀行を絶対に潰さないことであるとされた。
そのためにとられて政策が、護送船団行政である。 - 「当時の困難な社会、経済、政治の問題すべての根底にあったのは
人口過剰という問題でした。」
「当時の状況のもとでは、右と左を通じて、人口過剰の状態を、
経済のメカニズムの中で内部的に解決することはできないと思ったわけです」
「資本主義体制を崩すことがその解決であると考えた日値は左に行き、
領土の狭いことが悪いのだと思った人は右に走ったわけです」
←下村治『私の日本経済論2』1966