草津市の三大神社の藤。
小さな村の小さな神社ですが、樹齢400年のこの「砂擦りの藤」は有名で、ゴールデンウィーク前後は老若男女多くの人たちと、蜜を求めて集まる蜂たちで賑わいます。
この時期は協力金として200円が必要で、テントで地域産品の販売もされるので、小さな神社としてはかなりの大きな収入源になるでしょう。
400年間守って来たかいのある恵みの藤の木です。
よく似た花で、その区別の仕方が植物解説の定番となっているアヤメとハナショウブとカキツバタ。
違う花といっても同じアヤメ科アヤメ属なので、まとめて「アヤメ」もしくは「アイリス」としておけば多分学術的に正しい。
それでもその区別にこだわりを求められるのは、「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」という、今では誰も使わないややこしい故事成句があるためである。
このそのややこしい言葉を中世以来何百年もの間、人々が日常的に使っていたかという疑問もあるが、園芸が極めて盛んだった江戸の町ではそれなりに意識されていたのかもしれない。
もしずっと語られ続けているのだとしたら、いいかげん決着してもよさそうなものだが、いまだにややこしいままなのは、実はアヤメとカキツバタの区別などほとんどの人にとってはどうでもいいことだからなのだろう。
だとすれば「いずれ菖蒲か杜若」は、<どうでもいいことに延々とこだわり続ける様>というふうに、意味が転じていくかもしれない。
こちらは遠くから見るとちょっとアヤメっぽいけれど、よく見るとあまり似ていないラン科の「シラン」
アヤメとカキツバタの区別よりも、アヤメとランを区別を先にしたほうがいい。
こちらはアヤメにはまるで似ていないけれど、独特な花の色がとても魅力的なアヤメ科の「イキシア ビリディフローラ」
こちらはアヤメのように仰々しくもややこしくもない可憐なアヤメ「シャガ」
そしてこちらはアヤメでもランでもないマメ科の「フジ」
ますますややこしくなってきた。。。
春の終わりにあでやかに咲き誇る花の王牡丹。
二十四節気・七十二候で「牡丹華(ぼたんはなさく)」の時期、石山寺の牡丹園でも今が満開で、春の驟雨に洗われた後は一際鮮やかです。
「唐獅子牡丹」や「緋牡丹博徒」など任侠映画のイメージも強く、着物の柄の代表でもありますが、そういう紋切り型の和風イメージを超えて、全力で咲くこの花は美しいです。
花の魅力が全開になると、そこには多くの虫たちも集まってきます。
虫たちに圧倒的一番人気のこちらは、見た目はややおとなしいけれど、甘い香りがしていました。
果たして虫たちを惹き付ける魅力は何なのでしょう。
豪華に飾った牡丹をめぐって勢いよくブンブン羽音をたてて集まるハナムグリたち。
花と虫が求婚の儀式をおこなっているようにも見えました。
参道ではキリシマツツジも鮮やかに咲き揃っています。
どっしりと構えた牡丹と違い、こちらからは軽やかで甲高いおしゃべりが聴こえてきそうです。
こちらの求婚者はハナアブのようです。
次は藤棚も色付いてきて順番にバトンが渡されてゆく花のリレーが続きます。
『グーテンベルクの銀河系』
M.マクルーハン 著 森常治 訳
1986年刊 みすず書房
この本を読んでいる「活字人間」である読者自身の成り立ちを
否定的に追いながら国民国家や電気通信の未来まで予言し、
読者をとても不安定でスリリングな状態にさせる内容である。
線によって導くのではなく点によって浮かび上がらせるような書き方である。
その点の一つ一つが銀河系の星々で、もしかしたら活字の一個一個なのかもしれない。
現時点で気になるのはインターネットと国民国家の関係である。
国家を超えたグローバルな個人の結びつきと
周辺で強固に固まる極端なローカリズム。
国家抜きの世界はネットの部族社会に変わっていくのだろうか・・・
『職業としての学問』
マックス・ウェーバー 著 尾高邦雄 訳
1980年刊(改訳) 岩波文庫
ウェーバーが1919年にドイツの若者たちに向けて行った講演の記録。
第一次大戦の敗北で著しく疲弊し、それまでの価値観が崩壊したドイツ国民を
ヴェルサイユ条約による制裁が押し潰してしまわんとする刹那に、
スーパー頑固おやじウェーバーの講演は火を噴くような激しさであったようだ。
理を通して話しているが、気持ちは<浮足立つな!落ち着け>である。
しかし怒られようが怒鳴られようが説得を試みられようが、
戦争を止められず、敗戦で悲惨な現状をつくったのは、
そのおやじたちなのであるのだから、
残念ながらどんな熱弁も空しく響いたかもしれない。
『職業としての政治』
マックス・ウェーバー 著 脇圭平 訳
1980年刊 岩波文庫
1919年にドイツで行われた講演の記録。
第一次大戦敗北後の絶望と無力感、焦躁と憤りのミュンヘン。
行き場を失った人々のさまよえる魂が
根拠のない革命の熱気に飲み込まれていく。
絶望を忘れるためには熱病に罹るしかないかのように。
そこに生れようとする巨大なむき出しの暴力を目の前にして
ウェーバーは語った。
しかし、どれほど論理を研ぎ澄まし倫理を訴えても
それが会場の外にまで響く事はなかった。
悪魔に倫理を対峙させても効果はない。
最終的にヒトラーという悪魔を退治したのは
もう一人の悪魔スターリンだった。
権力が暴力の争奪であることを戦争が証明したのである。
『今こそ読みたいマクルーハン』
小林啓倫 著
2013年刊 マイナビ出版
この本の出版元であるマイナビ出版(毎日コミュケーションズ)は、
パソコン全盛の頃にはわかりやすく上質なソフトの入門書を多く出版し
好評を得ていた会社である。
現在は電子化の大衆化やネットワーク化が猛スピードで進展し過ぎて
オーソドックスな入門書の出番は少なくなってしまった。
そこで従来の顧客層であるビジネスの分野を中心に
新書をラインナップするようになった。
この本もその流れの中の一冊である。
マクルーハンはビジネスや自己啓発や儲け話に
直接関係する人ではないが、
企業と関係しながら議論を発展させて面も持っていて、
SNSなどの新しいメディアの登場を予言しているようなところもあるので、
やや無理矢理ではあるがビジネス向けの新書に入れられている。
そんなことなのでこの本も
マクルーハンを通して現代のメディア状況を考えるというレベルではなく、
マクルーハンを通して現代の表層を少しなぞる程度の内容である。
しかし入門書としてはこれくらいの方がわかりやすいだろうし、
これくらいの情報があれば知的議論の十分な土台になるだろう。
『新書で名著をモノにする「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」』
牧野雅彦 著
2011年刊 光文社
長年電車のつり広告で読者をひきつけてきた出版社ならではの
発想でつけられた軽いタイトルであるが、内容はしっかりとした入門書。
逆に軽いタイトルにひかれてこの本を手にした人は
硬派な内容に頭を悩ますかもしれないが、
その落差こそこの本の企画の狙いなのかもしれない。
さて内容であるが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の本文を
丁寧に解説しながら同時にマルクス、ゾンバルト、ニーチェ、シュミットとの
比較も行われている。
ウェーバーとゾンバルトの微妙な違いを指摘したり、
プロテスタント諸派から『古代ユダヤ教』にも遡ったりと
コンパクトな本であるが読み応えのある内容になっている。
ストライクゾーンの四隅を切れのいい速球で攻めながら
真ん中に深く落ちるカーブが組み合わされているような構成である。
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