『菊と刀』 R・ベネディクト著 長谷川松治訳 1946年刊行

プリント

 

菊と刀

 

『菊と刀』
R・ベネディクト著 長谷川松治訳
原題はThe Chrysanthemum and the Sword
-Patterns of Japanese Culture-
1946年刊行 日本語訳は1948年

 

この研究をしている間、ベネディクトは一度も日本を訪れたことはなかった。
ただ本を読んで、映画を見て、日系移民に聞いてみただけだった。
そんなことで日本の何がわかるのかという批判もあるだろうけれど、
その頃日本に住んでいたどの日本人よりも、
太平洋の向こう側にいた彼女の方が客観的に日本を把握していたように思われる。

部分的には見当はずれなところがあったとしても、
この研究のもつ鋭さが減じるわけではない。

逆に限られた研究環境であったからこそ、
思いきった視点で深く切り込めたのかもしれない。
そして戦争中の敵国民が対象であるにもかかわらず、
その冷静な分析の姿勢には学者としての誠実さを感じる。

 

 

日本の社会を形作っている基本原理として以下のようなことを挙げられている。

・日本では義とは、祖先と同時代者とを共に包含する
相互債務の巨大な網状組織の中に、
自分が位置していることを認めることである。(←世間)

・それが出生であろうと死亡であろうと、あるいはまた、田植、普請、懇親会の
いずれの場合であっても、「義理」の交換は将来の返済に備えて丹念に記録される

・「義理に迫られる」人間はしばしば、
時のたつにつれて増大した負債の返済を強いられる。
・子供に対する献身的な愛護は、かつて自分が無力な幼児であったころに、
両親から受けた恩の恩返しである。人は自分の子供を、
親が自分を育ててくれたのと同じようによく、
あるいはそれよりもいっそうよく養育することによって、
親から受けた恩の一部を返済するのである。
子に対する義務は、「親の恩」の中に全く包摂されてしまう。

・「恩」は第一の、また最大の債務、すなわち、
「皇恩」について用いられる場合には、
常にこの無限の献身の意味で用いられる。
・人から恩を受けることに関する同じ態度を、
日本人の立場からみていっそう強く言い表す感謝の言葉は“カタジケナイ”であって、
この言葉は「侮辱」、「不面目」を意味する文字[辱、忝]で書き表わされる。

この語は「私は侮辱された」という意味と、
「私は感謝する」という意味と、
両方の意味をもっている。
・あなたは、あなたが受けた法外な恩恵によって、辱められ、侮辱されたこと
―あなたはそのような恩恵を受けるに値しないのであるから―を言い表す
・人の債務(「恩」)は徳行ではない。返済がそうなのだ。
徳は人が積極的に報恩行為に身を捧げる時に始まる
・(日本を理解するのに)最も重要なものの一つは、
その階層制度に対する信仰と信頼
・日本人の他人への奉仕の背後にある強制力は、
むろんこの相互義務であって、それは人から受けたものに対して
等量の返済をすることを要求するとともに、
階層的関係に立つ者同士が相互にその責任を果たし合うことを要求する
・(日本人は)過去と世間に負目を負う者

日本は、祖先から子孫に受け継がれていく「恩」という縦糸と、
親族や共同体で共有される「義」という横糸で編まれている。
そしてその縦糸の根本に「天皇」がある。
そして義理が行動の規範となり、恥が行動の原動力となる。
(そこに国民をまとめ上げ、動かす一種のトリックがあった)

その道徳体系の中では
「おのおのにふさわしい地位に甘んずる」「自分にふさわしい位置を守ること」が
立派なことであり、分不相応に金持ちになることは後ろめたいこととされた。
日本の富はその階層制度の中に占めるべき位置を与えられるものであり、
それ以外のところで獲得された成金的な富は痛烈に批判された。
つまり日本とは<身軽な個人のつながりがつくる強力で豊かな網の目の共同体>
であったと言えるのではないだろうか。
そしてこの目に見えない共同体意識は、今も分不相応なターゲットを見つけては、
頻繁に「炎上」を起こしている。

また、それだけ強く縛られていながらも、
きっかけさえあれば日本人は鮮やかに手のひらを返す。
その点については以下のように記されている。

・世界の歴史の上で、主権国家による計画的文明輸入が
これほどうまくいった例を他に見いだすことは困難である
(日本の天皇による律令制度の輸入)
・日本の津々浦々から湧き起った叫び声は
“イッシン”(一新)―過去にさかのぼることと、
いにしえに復帰することであった。それはおよそ革命とは正反対のものであった。
それは進歩的ですらなかった(明治政府)
・それはあたかも、新しい頁をめくるかのようであった。
新しい頁に書いてあること、古い頁に書いてあることとは正反対であったが、
彼らはここに書いてあることを、同じ忠実さで実践した(日本人俘虜の対米協力)
・日本人は、ある一定の行動方針を取って、
目標を達成することができなかった場合には、
「誤り」を犯したというふうに考える。
彼はある行動が失敗に終われば、それを敗れた主張として棄て去る。
彼はいつまでも執拗に敗れた主張を固守するような性質にはできていない。
日本人は、「ほぞを噛んでも無益である」と言う。

本のタイトルになった「菊と刀」については

・自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも、
遙かに徹底して解釈されている。
こういう日本的な意味において、刀は攻撃の象徴ではなくして、
理想的な、立派に自己の責任を取る人間の比喩となる
・日本本国にいる日本人も新しい時代に際会して、
昔のように個人の自制の義務を要求しない生活様式を
樹立する可能性をもっている。
菊は針金の輪を取り除き、あのように徹底した手入れをしなくとも
結構美しく咲き誇ることができる

と書かれており、日本文化に対する敬意と、日本人に対する温かいまなざしを感じる。

 

 

パンセバナー7

 

パンセバナー6

 

 

 

 

 

『菊と刀』 R・ベネディクト著 長谷川松治訳 1946年刊行” への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA