『呪われた部分』 G.バタイユ 著 生田耕作 訳 1973年刊 二見書房

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呪われた部分5

 

『呪われた部分』
G.バタイユ 著 生田耕作 訳
1973年刊 二見書房

 

ジョルジュ・バタイユ著作集の第6巻

この本(著作集)に関しては、まず装幀。
村上芳正氏によるもので
これがかっこいい…

 

呪われた部分6 呪われた部分3 呪われた部分9

 

シリーズのタイトルも『眼球譚』に始まり、『死者』、『聖なる神』、
『呪われた部分』、『エロティシズム』などが並んで最後が『神秘』…
と重厚。
アナログ文化が最後の輝きを放っていた1970年代出版物の
ややレトロな感じも魅力で
全15巻を揃えてガラス扉のついた書棚に
厳かに並べておきたくなる。
そもそも今の時代では、そんな書棚もまたレトロな存在で
<箱入りのバタイユ著作集がズラリと並んだ書棚の置かれている書斎>
などというものは偏執的な登場人物を象徴するドラマやアニメの設定
くらいにしか使い道がないかもしれない。

そして一応、(著者が述べるには)これは経済学に分類できる本なのに、
翻訳が孤高のフランス文学者生田耕作先生による格調高いもの!
(「訳者あとがき」によると、原文があまりに平明で明瞭なので
難しく書くことを得意とする先生は翻訳に困ってしまったということだ)
そしてこの著作集が既刊書のラインナップに並んでいることが
とても異質な感じがする二見書房による出版。
二見書房の他の本と言えば『誘惑の瞳はエメラルド』とか『愛の服従』とか
『情熱の炎に抱かれて』とか『その言葉に愛をのせて』とかで、
確かにそれはバタイユの『眼球譚』とか『ジル・ド・レ論』とか
『エロティシズム』とか『言葉とエロス』とかと
つながってはいるけれど、多分ものすごく飛躍もしている。
(この著作集は、二見書房が単なるエロ本屋ではなく、
由緒正しいエロ出版社であることを示す定礎のようなものなのかもしれない。)

 

 

以下、本文より

・富の「消費」(蕩尽)が、生産に比して、
第一目標となるような「普遍経済」の原理

・生物や人間に根本的問題を突きつけるものは、
必要性ではなく、その反対物、「奢侈」である。

・もともと富の一部が、概算して、損失に、
或いは、利益の見込みのない、
非生産的使用に捧げられているとすれば、
商品を報償なしに譲ることは、当を得たことであり、
避けられないことであるとさえいえる。

・太陽は与えるだけで決して受け取らない

・地球上での生命の歴史は
もっぱら狂おうしい充溢の結果である。
すなわちその主要な事件は奢侈の発展、
次第に経費のかさむ生命形態の産出にほかならない。

・同じ種どうし互いに食らい合うことがいちばん単純な奢侈形態である。

・宿命的な仮借ないかたちで訪れる、死こそ、
ありとあらゆる奢侈のなかで、まさしく最も高くつくものだ。
動物の肉体の脆さ、その複雑さは、
すでにその贅沢な方向を露呈している。
だがその脆さと贅沢さは死の中で頂点に達する。
空間の中で、木の幹や枝が光に向って葉叢(はむら)を
幾層にも積み上げていくのと同様に、
同じく死は時間の中で諸世代の推移に区切りをつける。
それは新生児の到来に必要な場所を絶えず残すのであり、
それなくしては自分たちが存在しないものを
われわれはまさしく不当に呪詛しているわけである。

・草食動物が植物に比べて―肉食動物が草食動物と比べて―、
一種の奢侈であるのと同様に、その運動の太陽起源と合致した
燃焼にたいして生命の圧力が提供する剰余エネルギーを、
激しく、豪奢に、消尽するのに、
生きとし生けるもののうちで人間は最も適しているのである。

・富の蕩尽にたいするわれわれの反応の
このような二重変質には一種の呪詛感がまつわりつく

・われわれが労働することを心掛けるのと同様に
彼ら(アステカ族)は犠牲にすることを心掛けた

・戦争は征服ではなく、蕩尽の意味を持っており、
そしてメキシコ人はもし戦争がとだえれば、
太陽は輝くのをやるだろと考えていた。

・事物の世界が確立して以来、
人間は少なくとも働いている時間には、
自らその世界の事物の一つと化してしまったのだ。
かかる堕落から逃れんものと、
あらゆる時代の人間は努力してきた。
その異様な神話の中で、その残虐な祭儀の中で、
当初から人間は失われし内奥性を求めているのである。

・宗教とは、その幾久しい努力であり、
その苦悩に満ちた探求である。
常に目指すものは、現実の次元から、
ものの貧しさから引き離し、崇高な次元へ戻すことである。
人間の使用する(まるでそれらが人間のためにのみ価値を有し、
それら自体としては無価値であるかのごとくに)動植物は、
内的世界の真実に戻される。
それから人間は聖なるお告げを受け取り、
そのおかげで今度は彼が内的自由に戻される。

・内奥の世界は現実の世界と、ちょうど過度と節度、
狂気と分別、陶酔と覚醒のように対立する。
客体に関してしか節度は存在せず、
客体と自己の一致の中にしか分別は存在せず、
客体の明確な認識の中にしか覚醒は存在しない。
主体の世界とは夜である。
理性の眠りの中でかずかずの妖怪を生み出す、
あの無限にいかがわしい、落ち着かぬ夜。
「現実的」次元にいささかも従属せず、
「今」にしか心奪われない、自由な「主体」の原理を示せば、
狂気という言葉すら甘すぎると言えるだろう。

・生贄とは有用な富の総体のなかから取り除かれる一種の剰余である。
そしてそれは利得なしに蕩尽されるためにしか、
従って永久に破壊されるためにしかそこから抽出されない。
それは、選出されるや否や、苛烈な蕩尽へと運命づけられた
呪われた部分になるのだ。
だがその呪詛はそれをものの次元から引き離す。

・ナナウアチンの自発的犠牲行為を他のものより上位に置き、
神々によって蕩尽される戦士をほめたたえ、
神格に蕩尽という意味を付与したのだ。

・彼は紛れもなく浪費人間であったために、
自分の生命が駄目なら代りにその富を与えることになった。
与え、そして、遊ばねばならなかった。

・アステカの「商人」は売るのではなく、贈与による交換を行っていた。
すなわち「民の長」(スペイン人が王という名で呼んだ主権者)から、
贈物として富を受領し、彼らが赴く先々の国の領主たちに
それらの富を進物にするわけである。
「そうした贈物を受け取ると、その地の領主たちは
さっそく別の進物を手渡し王のもとへ届けさせる」

・このような慣行における交換物は、ただのものではなかった。
それは俗世界の無気力に、生命不在に陥っていなかった。
それをもってする贈与は栄誉の表示であり、
物品そのものに栄誉の輝きがあった。
人々は、与えることに、己の富と幸運(威力)を表明するのだった。

・問題は過剰分の消費の問題である。われわれは一方においては与えるか、
失うか、もしくは破壊するかしなければならない。
しかし獲得の意味を持たねば、贈与は馬鹿げたことといえるだろう。
(従ってわれわれは決して与える気にならないだろう)。
そこで与えることが力を獲得することになる必要がある。
贈与には与える主体の超越という効能がある、
だが、与える物品と引き替えに、主体は超越を己れのものにする。
己れの効能、すなわち彼がその力を発揮したところのものを、
彼は一つの富と、爾後己れに所属する力と見做すに至るからだ。
富の規模によって彼は豊かになるのであり、
彼がためこむものは彼の気前のよさの所産である。
・他者にたいして行われる働きかけが
まさしく贈与の力を構成するのであり、
これを人は、失うという事実によって獲得するのだ。
ポトラッチの模範的効能は、己れから脱するものを捉えること、
すなわち宇宙の無際限な運動を自己の有する限界と
結び合わせる可能性が人間に与えられるところに、現れるのである。

・個人的自尊心は呪われる。金離れがよく、一徹で、
野性的で、乙女たちを愛しまた彼女たちから愛される戦士、
部族の詩の主人公は、教理と祭祀の絶対的遵奉者である敬虔な兵士に席を譲る。

・メッカからメディナへのマホメットの逃亡は、
血縁の破棄と、そしてその宗教的形式を採用する者に
開かれた選択的同胞愛に基づく新しい共同体の立場を確立したのである。

・諸部族のムルワの如きものがアラブ世界に存続し、
暴力が浪費と、愛が詩と結びつく騎士道的価値の
伝統を保存したのである。

・全体として社会は常にその存続に必要である以上に生産し、
超過量を処分する。
社会を決定づけるものはまさしくそれの使用法である。
すなわち、剰余が動揺の、構造変化の、さらに全歴史の原因なのだ。
しかしそれは一つならず捌口を持っており、
その最も通常的なものが成長である。
そしてその成長そのものにいくつかの形態があり、
そのどれもが、最後には、何らかの限界に突き当たる。
阻止されると、人工成長は軍事的になり、征服を余儀なくされる。
軍事的限界に達すると、剰余は捌口として宗教の奢侈的諸形態を、
そこから派生する遊戯や、見せ物を、或いは個人的贅沢を持つに至る。

・イスラム教は超過分を残らず戦争に、
近代世界は産業施設に充てた。
同様にラマ教は瞑想生活に、
この世における感性的人間の自由な遊びに充てたのである。
・宗教活動―供儀、祭礼、豪奢な設備―は
社会の超過エネルギーを吸収する、
だが効果的な諸行為の関連を断ち切ることが
第一義であったものに第二の効用が付与される。
そこから宗教的領域にみなぎる大きな後ろめたさ
―誤謬の、欺瞞の感情―が生まれる。

・莫大な非生産的な蕩尽と、
そして自ら選んでそのような生活に飛び込んだ連中の無為を、
宗教改革に至るまで正当化し続けた宗教的犠牲の精神に、
これほど臆面もなく相反するものはほかにない。
←フランクリンの「時は金なり」に対して

・宗教的純粋性の要求にその究極的帰結を与えることによって、
それは聖なる世界を、非生産的蕩尽の世界を破壊し、
そして地上を生産の人間に、
ブルジョワたちに引き渡したとも言えるのである

・資本主義を帰結点とするカルヴァン主義について、
それが一つの根本的問題を告知するという言いかたもできるだろう。
すなわち、追求がなんらかのかたちで
彼をそこへ引きずり込む行動は、
まさしく彼を自分自身から遠ざけるものであるとすれば、
人間はどうすれば己れを見出すことが
―もしくは己れを取り戻すことが―できるのか?

・資本主義とはある意味でものへの無制限な、
ただし結果を顧慮せず、また遠くをまったく見越さない、
一種の盲従であるといえるだろう。
資本主義一般にとって、もの(生産物および生産行為)とは、
清教徒の場合と異なり、自らがそれになる、
またならんと欲するところのものではない。
そのなかにものがあるとしても、
それ自体がものであるとしても、
それは悪魔が、気づかぬうちに、人に乗り移っていたり、
取り憑かれた人間が、自分では知らずに、
悪魔そのものになってしまっているようなものである。

・それは生産手段の生産のために
過剰資源の大半を充てるところに特徴がある
←ソヴィエト

・最大の生産額を目指して個人の意思を滅殺する、
一個の巨大な機械が組み立てられたのだ。
いかなる場所もそこでは気紛れに任されない。
労働者はそこで勤労手帳を受け取り、
その後は気ままに或る町や工場から余所へ移るわけにはいかない。
二十分の遅刻が強制労働の苦役で罰せられる

・至る所で、歯ぎしりと歌声の中で、
重々しい沈黙や演説の喧噪のなかで、
貧困と熱狂のなかで、来る日も来る日も、
皇帝(ツァーリ)たちが無力なかたちで放置した巨大な労働力が、
大建築を築き、そこに利用可能な富が蓄積され、増殖されているのである。

・根本的には、戦争の危機が発生するのは
過剰生産の側からである。
戦争のみが、輸出が困難な場合には、
そしてもしも他の抜け道が開かれていない場合には、
飽和した産業の顧客になりうるからである。

・全体的にみて世界には、
「空間」の(より正確には、可能性の)欠如から、
成長を確保しえない過剰資源の一部が存在する。
犠牲にすべき部分も、犠牲の瞬間もつねに正確には知らされない。
だが普遍的視点からすれば、いつかどこかの場所において、
成長が放棄され、富が拒否され、そしてその可能な多様性が、
或いは有利な投資が退けられねばならない。

・戦争は間違いなく起るだろう。
その脅威が合衆国をして、冷静に、剰余の重要な一部を
―見返りなしに―世界的生活水準の向上に
捧げるべくしむける範囲内でのみ、
経済の動きが産出された過剰エネルギーに
戦闘以外の抜け道を与えることによって、
人類はしに諸問題の普遍的解決の方向へ
平和裡に赴くことができるであろう。

・けだしなんらかの獲得の対象を、
なにものかを把握しようと努め、
純粋損失の無を把握しようとしない点において
意識はそれと対立するからである。
意識がなにものかの意識であることを
やめる瞬間に到達することが肝要である。
換言すれば、成長(なにものかかの獲得)が
消費のかたちで解消する瞬間の
重要な意味について意識することこそ、
まさしく自覚、すなわちもはや対象として
何一つもたない意識である

・ダイヤモンドが夢の中で排泄に係わりある意味をもつ場合、
これは単に対比連想だけの問題ではない。
無意識のなかでは、宝石は排泄物と同様に一種の傷口から、
誇示的生贄の目的に充てられる己れの一部から流れ出る、
呪われた物質である。
(現にそれは性愛をこめた贅沢な贈物の役割をつとめる)。

・贈物は損失と、つまり部分的破壊と考えねばならない。
破壊したい望みを一部受贈者に振り向けるわけだ。
精神分析でいうところの、無意識的形態においては、
これは排泄行為を象徴しており、
そして排泄行為自体は肛門エロティシズムとサディズムとの
根深い関連に応じて死に連結している。

・競技や祭礼は異教の衰頽に伴って廃れた。
いきおいキリスト教が所有を個人化し、
所有者にその収益の全面的処分権を与え、
その社会的役割を撤廃したという見方も成り立つ。
少なくとも義務的なかたちでその役割を廃止したことになる。
というのは異教徒間に見られる慣習によって定められた消費に代えて、
富者から貧者に分配するかたちや、とりわけ教会への、
また後には修道院への莫大な贈与のかたちで、
キリスト教は自由な喜捨を設けたからだ。
そしてこれらの教会や修道院がまさしく、
中世においては、催し物の運営を
ほとんど一手に引き受けていたのである。

・切り詰めた消費というこの屈辱的概念に呼応したのが、
十七世紀初頭からブルジョワジーの手で育まれた
合理主義的諸概念であるが、
これらは卑俗な意味での、つまりブルジョワ的意味での、
ひたすら経済的な世界観という以外に意味をもたない。
消費への憎悪がブルジョワの存在理由であり、正当化である、
同時に、その恐るべき偽善の原理でもある。
ブルジョワたちは封建社会の浪費性を主なる非難の種として利用し、
そして権力を奪取したのちは、その欺瞞癖に基づいて、
貧困階級に歓迎される支配を行いうるものと自負したのである。
なるほど民衆が彼らを旧主ほど憎めないことは認めてもよい。
というのはまさしく、その分だけ彼らを愛せないわけだ。
なぜなら、それを目にしただけで、
その人間の一生が汚されてしまいそうなほど、
恐ろしく貪欲で、品のない、不愉快なくらいせせこましい、
卑劣な顔付きだけは、少なくとも、
彼らにとって隠しようがないからである。

・民衆の意識は、ブルジョワたちの生き方を人間の恥辱と、
忌まわしい後退と見なし、彼らに背を向け、
消費の原理を根深く保持するに至るのだ。

・<今日の人間の前には問題が突きつけられている。
すなわち彼が創りあげた富をどうするか?
無限に戦争を繰り返すか?
富の、また全般に使用可能エネルギーの氾濫が、
かくまで深刻に世界を脅かしたためしはいまだ嘗てない>
←双書「富の使用」

 

 

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