『KURA~貝の首飾りを探して南海をゆく』 市岡康子:著

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『KURA~貝の首飾りを探して南海をゆく』
市岡康子:著
2005年 コモンズ:刊

 

 

 

1971年に制作・放映されたドキュメンタリー番組
『クラ―西太平洋の遠洋航海者』の内容を書籍化したものである
(テレビシリーズ「すばらしい世界旅行」より)。

大変評価の高い番組ではあったが、
それでも製作から30年以上経った2005年になってから書籍化されたというのは
かなり特異なこと、というか本の売れない時代に
こんなにマイナーでピンポイントな内容のものが出版されるというのは、
ほとんど奇跡的なことではないだろうか。

 

番組は3年をかけて制作され、クラの一部始終を的確にとらえたもので、
20世紀初頭に記されたマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』の世界が、
カラーフィルムで鮮やかに生き生きと映し出されている。
書籍には、映像にならなかった裏話も多く書かれてあり、これも大変興味深い。
マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』の序文に示された研究姿勢に、
ドキュメンタリー制作者たちが強く触発されたこと、
現地の人々との文化的な違いによる心理的葛藤などの生々しい記録である。

マリノフスキーの研究を補完するものとして、
その隣に並べておいて、その雰囲気を感じたい本である。
民族誌は遠い国の昔話ではなく、我々の隣人のことであり、
我々自身の中にあるものである。

 

の島の人々はなぜ危険な航海に挑むのか?

それは我々が我々自身に「人はなぜ旅をするのか?」と問いかけることと同じである。

要するにそれは万国共通で時代も越える「男のロマン」みたいなものかもしれない。

そう言えば、出航前のクラカヌーの姿は、
かつて日本中の子供たちやおじさんたちを熱狂させた<トラック野郎>に似ている。

 

クラカヌーほどではないがトラック野郎にもパトカーをぶっちぎって爆走するくらいの魔力は備わっていた。

さらに付け加えるとその熱狂は裸祭りで神輿の上に乗って笛を吹いている人たちとも似ていて、 その洗練は歌舞伎の見せ場の連続のようでもあるという。

そして男たちの祭りの正装は日本でも南の島でも「ふんどし」である。

 

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1970年にクラを行っていた人たちへのインタビューで、
ある人はこう語っている。
「クラは他のものとは比べようがない。クラは人生の一部だ。

それは古くから人々に受け継がれてきた。クラはあたま飾りの羽毛か花のように人々を幸せにする」

 

地域社会の大きな円環のその地点に、祖先から子孫に流れて行く時間のその地点に、
彼が存在することの証がクラなのである。その意味ではクラは人生の一部と言うより、
クラが人生を与えてくれるという方が正確なのかもしれない。

しかし、その同じ取材時に、時代に浸食されるクラの問題点も語られている。
<クラの首飾りや腕輪を金で買おうとする>とか
<クラの駆け引きを裁判に持ち込もうとする>とか
クラの原理とは根本的に相容れない近代国家的、

資本主義的価値観の浸透が起きていたのである。

 

カネで価値を計れず、法の下の公平中立な裁判も認めないのは、
もちろん「子供じみた野蛮人」であるが、
何でも近代資本原理で押し通そうとするのは「人の心がわからない野暮」だろう。
さらに1990年代の再取材では、この伝統を揺るがす新たな事態が知られる。

 

それは島の人口増加である。
人口の増加は本来なら伝統の担い手が増える喜ばしいことであるはずなのだが、
ここでは人口の増加によってクラのために使える資源が著しく減少してしまうということが起きていた。

年2%の人口増は30年で人口を2倍近くに増やす。地域が人口を支えきれなくなると、
その人口は都市へとなだれ込み、都市部での人口爆発…
という近代化のパターンがここでも繰り返されることになるのかもしれない。

 

そうなればもうクラの伝統は失われるしかないのだろうけれど、
それでも人々の夢は続くのだろう。カヌーからトラックに積みかえられて。
※この番組は川崎市民ミュージアムの図書館で視聴できる。

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フェイスペイントをして踊る南の島の若者。

マスクにリーゼントでキメる
元気のよすぎる日本の若者のようである。

 

 

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