『近代化のなかの誕生と死』 国立歴史民俗博物館+山田慎也 編

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日本国内における誕生と死に関する人々の認識の変化を
明治から昭和にかけての儀礼の変化を通して考える論文集。
国立歴史民俗博物館の展示の再構築に関するフォーラムの内容を
書籍化したものである

 

argobook51

 

『近代化のなかの誕生と死』

国立歴史民俗博物館+山田慎也 編
2013年刊 岩田書院

 

以下、本文より・・・

 

 

1 誕生をめぐる民族

 

いのちの近代-トリアゲバアサンから近代産婆へ- 板橋春夫

 

・<母親が文字通り「産み落とす」のを「取り上げる」のが、
そのころまでのお産であった。
民俗学者は、この「取り上げる」という言葉を、
娩出時の物理的なすがたとは考えず、
赤ちゃんを神々の世界から人間の世界に
「トリアゲル」「ヒキアゲル」という意味が込められていた、と解釈する。
昔の日本人が、産まれたばかりの赤ちゃんをすぐに人間社会の一員とは認めず、
神々からの預かりものとして、養育できないときは容赦なく間引いた。>
←藤田真一『お産革命』

・<トリアゲルとは、子どものいのちを選択する必要に
迫られるなかで意味をもった行為だということである。
無資格の産婆が排除され、科学的知識と技術を備えた助産婦の活躍が
次第に拡大する過程を通じて、子どものいのちは選択されるものではなく、
無条件に生かされねばならない存在とみなされるなったことは確実である。>
←湯川洋司「七つ前の子どものいのち」『民俗学の進展と課題』

・トリアゲバアサンが堕胎に象徴される新生児の生殺与奪権を持つのに対し、
近代産婆は新生児の生命を保護することに大きく貢献しました。
堕胎排除の考えは富国強兵の国家理念と深く関わり、
近代産婆は新生児の生命を保護することで富国強兵の一翼を担うことになりました。

 

 

子どもの誕生にみる「選択される命」 鈴木由利子

 

・バースコントロールが実現可能なものであると認知され始めた大正時代、
平塚らいてうは、大正6(1917)年「避妊の可否を論ず」において
「子どもは授かりものでどうすることもできない」という多くの人びとの認識を改め、
産児調節を学び子どもの数より質を考えるべきであると主張しました。
宮坂靖子はこの主張に注目し、らいてうの視点が「授かりもの」としての子どもから
「つくるもの」へと変化していることを指摘しました(宮坂 1995)

・伝承された間引きの方法に、生まれた直後に
鼻口を塞ぎ産声を上げさせない例が数多く見られます。
呼吸し始めたことを生き始めたと考えるなら、
呼吸以前は未だ生き始めていないともいえます。

・当時(昭和30年代)中絶した女性たちが、中絶したことを
「とってもらう」「とってもらった」と
まるでデキモノを取り除いたかのような表現を用いる点

・中絶認可から中絶急増の時期に行われたのが、
中絶手術を担った医師や助産婦あるいは中絶遺胎の処理を任された胎盤処理業者、
宗教者による中絶胎児のための慰霊です。

・昭和41(1966)年、超音波診断装置の産科利用が開始されたとのニュースが、
母体内の胎児の映像とともに新聞紙上でも大きく取り上げられ、
70年代半ばには、産科において超音波診断の臨床活用が本格化しました。
こうしてそれまではみることのできなかった母体内の胎児の様子が
視覚・聴覚によって確認可能なものとなったのです。

・産科機器の進歩は、過去に中絶体験をもった人びとが、
我が子の命を絶つことであったことに気づかせることにもなったのでしょう。
産科機器の浸透と重なり合うように、
中絶体験者による水子供養が開始され流行期を迎えます。
つまり、胎児生命が確認できるようになったことにより、
過去の中絶胎児もまた供養すべき霊魂とみなされるようになったと考えられます。

・生殖補助医療の著しい進歩のなかで、胎児の命をめぐる議論は
避けて通れなくなってきています。
現在、受精卵(胚)は「生命の萌芽」(2000年、文部科学省指針)、
受精卵の臓器分化開始をもって「生命の始まり」とみなされています。
妊娠の自覚以前、人の形になるはるか以前の段階でさえ、
人の命として認識できるようになってきたのです。

・堕胎・間引きの時代から出生前診断の時代へ時代を超えて、
子どもの命は常に「選択される命」として存在し続けているともいえましょう。
産むことと産まないことからみる「近代化」の多元的状況 浮ヶ谷幸代

・地域医療のように生活の場で医療を提供する医師は、
土地の流儀にのっとったやり方で即興的、状況依存的な判断が求められています。

・医療福祉の領域では1970年代以降、病気や障がい、
生きるうえでの問題を抱える当事者によって構成された自助グループ
(SHG:Self-Help Group)が注目されています。

 

 

2 死をめぐる民族

 

 

葬儀の変化と死のイメージ 山田慎也

 

・ひとつの場所に参列者が集まって、
その前で儀礼を行うという葬儀のパターンができたのは、
少なくとも明治末期以降に誕生した形態であって、
その形態の成立と展開自体を問い直すことが、
改めて今の葬儀を考える基礎になると思われます。

・葬列は、自宅から寺院まで移動すること自体が儀礼ですから、
それを目的として行っていたわけです。

・より厳粛に、また儀礼として形式を整えていくため、
焼香だけではなくときには読経が行われ、時間を厳守し、
整列して拝礼する形ができあがるとともに、
式場を荘厳化するための祭壇も普及していったものと考えられます。

・移動をなくして一括して葬儀式の内容をまとめ、
さらに焼香もその前で行うという点では、
かなり効率的な儀礼となっていきました。
葬列の時代であれば、死者をみんなであの世に送る
というイメージであったのに対して、
まさに、もうあの世に行ってしまった、それに別れるという点では、
死のプロセスを効率化させた儀礼でもあるわけです。

・要するに死者をあの世に送る、もしくは死への旅路というものが、
さまざまな儀礼によって行われていたわけですが、
斎場で集まってそこで別れて終わりという形態になると、
確立された死というものを追認するだけになるのです。

・結局、臨終の医療化、要するに医療というものが介在する形で
臨終を迎えることも多くなり、葬送儀礼の収斂化も含めると、
死者への接触が断片的になり、死のリアリティを獲得することが
困難になっていったのではないでしょうか。
まさに現代というのは、そうした点では
断片的な接触でしか死者とのつながりいうものが形成されないわけです。
そうして、断片化によって死の認識がある意味不完全なものにされていく。
それが葬送儀礼の形骸化というものを感じさせるようになっていき、
人々の間でそうした感覚が共有されることによって、
葬儀の意味というものが問い直されていくような時代になってきたと思われます。
近代国家と墓制-死者の「共葬」をめぐる実践- 前田俊一郎

 

・共葬墓地は一町村一箇所に設ける墓地であり、それ以外の墓地は認めない
←内務省 明治18年

・墓地の再編が、同族集団と強く結びつきながら展開してきたことであり、
埋葬をイッケ単位に行うことで、
伝統的な血縁系譜集団への帰属が墓地使用の原則となる
墓地の入会慣行が発生・定着することになりました。
さらには、旧墓地の再編を通して、
移転した先祖墓を頂点とする階層構造が視認できる、
きわめて特徴的な墓地が形成され、
セキトウバは同族祭祀の新たな斎場となったことも注目されます

 

 

コメント/総合討論

 

・人間のライフサイクルの始まりと終わりが今、医療の手に委ねられている
←浮ヶ谷

 

 

 

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