個人・法人を問わず「社会貢献」の重要性が語られることは多い。
「社会貢献」が盛んになるのは社会の成熟の証であるとも言われる。
それはなぜか?
個人の衣食住が整って文化や社会全体に
目が向けられるようになるからであろうか。
豊かになりお金持ちになり過ぎた人が
自らの富裕さを誇示するために寄付がはじまるのだろうか。
確かに一面ではそういうこともあるだろう。
でもそれは現象の一部分であって本質ではない。
では、その本質は何か?
それは自らの成り立ちへの気付きであろう。
個人であれ、法人であれ
今ここに存在していられるのは
社会というものの存在を前提としてのことである。
社会があることによって個人も法人も存在できる。
自らの存在がその社会によって
与えられ支えられているものであると気付いた時、
与えられたものへのお返しとして<貢献>が始まるのである。
見返りを求めず一方的に貢ぎ、献げるのは、
すでに多くを受け取ってしまっているからである。
存在は与えられたギフトであり
貢献は行動するギフトである。
それは自然に対しても同じである。
自らの命が自然によって与えられたものだと気付いた時
内的動機に導かれた環境保全がはじまるのである。
そしてそういう気付きを得て
「ありがとう」と言えるようになることを
<成熟>というのであり、
その成熟は年齢とも収入とも無関係である。
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