『産業革命』 長谷川貴彦 著 2012年刊 山川出版社

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右向きと左向きの二つの宗教が対立し、
それが終りの見えない激しい争いが続ける中で、
右でも左でも納得する中立的な技術が体系化されていき、
それが「科学」と呼ばれるようになった。
それは右でも左でもないより普遍的な存在であり、
右と左を超越する新しい神様の誕生であった。
新しい絶対神の前では、古い神様たちは
科学者になれなかったただの不思議ちゃんに落ちぶれて行った。
古風な倫理や宗教から解き放たれた怖いもの知らずの
<純粋>科学は飛躍的に発展し、あるいは勝手に暴走する。
その力を使って世界を変え、あるいはその力によって
翻弄されてきた姿こそ我々の近代史である。

 

 

 

以下、本文より・・・

・1733年頃 ジョン・ケイ 飛び杼
1759年 ウェッジウッド 陶磁器製作所開設
1761年 ブリンドリー ブリッジウォーター運河
1764年頃 ハーグリーヴス ジェニー紡績機
1769年 ワット 改良蒸気機関の特許
1771年 アークライト 最初の水力紡績機
1779年 クロンプトン ミュール紡績機
1784年 ワット 複動回転蒸気機関
1785年 カートライト 力織機
1789年 ボウルトン、ワット 最初の蒸気力紡績工場
1807年 モーズリー 卓上蒸気機関
1807年 フルトン 蒸気船
1815年 マクアダム ブリストル有料道路建設
1825年 スティーヴンソン 蒸気機関車実用化
1825年 リチャード・ロバーツ 自動ミュール紡績機
・「産業革命」は、フランス革命とのアナロジーによって「発明」された
・「産業革命」という用語がイギリス人のあいだに定着していくのは、
1884年にアーノルド・トインビーの、
有名なオックスフォード講義録のなかで用いられたときからであった。
・そこで発見されたのは、国民的な経済成長の緩慢性だけでなく、
労働力構成における重要な再編の発生であった。
すなわち、労働者が農業部門から製造部門へと移動していることであり、
この構造変化こそが「産業革命」の名に値するというのである。
→クラフツ 産業革命の再定義
・→鄭和の船は全長130m、コロンブスのサンタマリア号は20m程度
・ヨーロッパは、アジアとの交易拡大を望めば望むほど、
アメリカ大陸で産出される銀をその対価として獲得する必要に迫られ、
新大陸を征服するという衝動に駆られることになった。
・前近代の自然科学は、文明のもつ宗教的ならびに哲学的伝統のなかに
うめ込まれた存在であった。
これにたいして、ヨーロッパの近代科学は数学を基礎として
科学と宗教を分離していった。
数学を根本原理とすることが、
ヨーロッパとアジアの科学の発展の分岐をもたらしたのである。
・ヨーロッパの科学がその古典的な伝統から
「逸脱」していった原因は、いくつかあげることができる。
スペインによるアメリカ大陸の発見、
また一連の天文学における発見が、
キリスト教的世界観に決定的な打撃を与えたことである。
・大西洋地域は単一の一体化した経済地域とみなされなければならない。
・イギリスにおいて直接的に戦時財政をまかなうことになったのが、
イングランド銀行が発行する国債であったが、
この国債に信用を与えたのが「議会」であった。
→第二次100年戦争(1689-1815年)
・まず法体系の整備という面では、コモンローの体系が、
慣習的権利の設定というかたちで
「私的所有権」を保証する体系を形成していった。
これは、大陸のローマ法体系が、
君主権の絶対化に帰結しやすかったのとは対照をなす。
・最近の研究によれば、フランス啓蒙は抽象的かつ演繹的であり、
そこから大思想家を生み出すことになった一方で、
イングランド啓蒙の特質は、実用的かつ実利的であり、
機能的であり、幅広い裾野をもって
地域社会レヴェルで展開した点にあるという。
・19世紀初頭のほとんどの技術革新は
小規模の発明や改良のもたらした成果であるとして、
「ミクロな発明」の意義が強調されている。
・綿紡績機や蒸気機関を別にすれば
マクロな発明のほとんどがフランスに起源をもつものであり、
亡命ユグノーなどをつうじてイギリスに移植され改良されたものにすぎない。
・1800年以降、ミュール紡績機の登場によって、
綿工業は蒸気機関を導入することで、
他の産業部門に先駆けて工場制度が生み出され、
1770年から1815年のあいだに、
2200%の割合で生産高を増大させた。
・反射炉の特徴は、火床と炉床が分離しており、
燃料と接触することなく銑鉄を溶解・精錬することができ、
石炭を用いても硫黄が鉄に混入する恐れがなくなったことである
・衣食住・燃料・動力という経済活動の基本的要素が、
主として植物や動物に依存して、土地の生産性に根本的に
制約されていた時代を「有機物依存経済」と呼ぶ。
→「鉱物依存経済」へ移行
・これまで土地をめぐって競合していた、
人間の生存維持と産業の成長の二つの要因が和解したのである。
これによって、想像を絶する人口増加と経済成長が実現可能となった。
・近世のヨーロッパでは、
グローバルな経済の展開と結合した都市の成長によって、
木材価格が上昇して、代替的な燃料の模索が始まる。
イギリスでは、安価な石炭資源の存在が、
石炭を動力源とする労働節約的な技術革新をおこなう誘因を生みだしていった。
・1700年から1870年にいたる経済成長には、
二つの異なる段階があったことに気づくであろう。
18世紀にみられる着実で安定的なイギリスの工業化は、
伝統的な「有機物依存経済」のなかでの
経済成長のパターンを踏襲したものであった。
繊維産業の水力紡績機にみられるように、
初期の製造業に関連した革新のほとんどは、
有機物依存経済の枠組みのなかで遂行されたものだった。
これにたいして、19世紀の初頭から見られる工業化の急激な進展は、
「鉱物依存経済」への転換をとげた経済成長パターンとしてみなされるであろう。
・まず地理的にみれば、産業革命は綿業や機械工業などの
成長部門が立地する地域の急激な発展を生み出す一方で、
伝統産業の立地する地域の衰退の衰退をもたらした。
この発展地域と衰退地域の平均をとった場合、
必然的に 全国レヴェルでの平均値は
発展地域のそれよりも下方に修正され、
産業革命の実像を反映したものとはならない。
・工場経営者たちが女性や児童を雇用したのは、
伝統的な労働のパターンに慣れ親しんだ職能集団から
男性の労働力を調達することが難しいと感じたことが原因であった。
・イングランドの人口は、1701年には500万人であったのが、
1800年には860万人となり、51年には少なくとも1681万人に達した。
18世紀後半から19世紀初頭にかけてイングランドでは、
人口動態上の断絶、いわゆる「人口革命」が発生したのであった。
・リグリーとスコフィールドは、
その原因が主に早婚と未婚女性の減少にあったとする。
→人口増加
・18世紀と19世紀には、人口の再配置というかたちで
増大した人口を吸収できるようになった。
これが都市化をもたらすことになる。
・17世紀後半以降には、こうした新しい輪作を導入することによって、
土地の非沃度と穀物産出高が格段に増大していったのである。
この農法は、イースト・アングリアなど南東部諸州で
普及していったことから「ノーフォーク農法」と呼ばれている。
・長子相続制を制度として確立することによって、
貴族の大規模土地所有制度が温存される一方で、
あいつぐ対外戦争によって課税される地租負担に耐えきれない
中小の地主層が没落して、小規模農場の土地は買い占められていった。
・ヤン・ド・フリースは、近世ヨーロッパでは産業革命に先駆けて
「勤勉革命」が発生したことを指摘した。
・贅沢品を購入する賃金を獲得するために、
個人が長時間の労働をおこなうようになった。
・1760年には2700時間前後であったものが、
1830年には3300時間から3400時間にまで増加した。
→年間労働時間
・いわゆるエネルギー革命によって、
鉱物依存経済への転換がはかられていった
・可処分所得が少ないため購買力が低く、
したがって製造業のための市場規模が小さくなり、
技術革新やエネルギーの代替に向けての動機が弱かった。

 

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