『レヴィ=ストロース入門』小田亮 著 2000年 刊 ちくま新書

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『レヴィ=ストロース入門』
小田亮 著
2000年 刊 ちくま新書

 

レヴィ=ストロースの<構造>と言語学、数学との関わりにはじまり、
構造主義人類学に向けられる批判を<構造>の基本とともに検討し、
次いで主な著作である『親族の基本構造』『今日のトーテミズム』
『野生の思考』『神話論理』を順番に解説していくという、
よく整った内容の入門書。

融通無碍でとらえどころに少々コツのいる<構造>と
自らの思想の足場ごと崩しながらレヴィ=ストロースが批判する<歴史>
とらえどころがなくて足場もないから
わかりにくくて幻惑的、そして
スリリングと言えばスリリング。

 

 

第1章 人類学者になるということ
哲学の放棄

・<顔>のみえる関係からなる小規模な真正な(本物の)社会の様式と、
近代社会になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な
「非真正な(まがいものの)」社会
・真正さの水準とは、法や貨幣やメディアに媒介された
間接的で一元的なコミュニケーションと、
身体的な相互性を含む<顔>のみえる関係における
多元的なコミュニケーションの質の違いを指しているにすぎない。
・あたかも神の眼から一望したように境界の明確な全体としての社会を、
メディアの媒介によって想像する仕方と、
全体を見とおす視座などもたずに、
人と人との具体的なつながりを延ばしていって、
境界のぼんやりとした社会の全体を想像するしかないという想像の仕方の違いである。

第2章 構造主義はどのように誤解されるか
変換と無意識

・構造と体系の相違点は、体系とは違って、
構造は変換されるという点にあり、
また、構造とは何かという問いのシンプルな答えは、
一連の変換の過程をとおして
「他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるもの」、
つまり、ある体系が変換をとおして別の体系したときに現れる不変性
・構造という見方においては、変換されえないものなどなく、
体系を構成する要素も要素間関数も、一切のものが変換しうる。
つまり、要素も要素のあいだの関係もすべて変化しているにもかかわらず、
そこに現れる「不変の関係」という不思議なものが≪構造>ということになる。
・構造の探究(すなわち構造分析)とは、
一つの体系と、それとは別の体系のあいだに変換の関係をみいだすことにほかならない。
・言語学におけるプラハ学派によってはじまる「構造言語学」であり、
もう一つはフランスの現代数学者グループである
プルバキ集団による「数学の構造主義」
・レヴィ=ストロースが、
トムソンやヴェイユの数学的構造主義から取りだした
中心的なアイデアが「変換」という観念だとすれば、
ヤーコブソンの構造言語学から取りだされた
中心的なアイデアのほうは、「無意識な二項対立」という観念であった
・「ひとつの項を独立した実態として意識的に把握することから、
項と項の差異関係がはたらく無意識の場の把握へ」
という構造主義革命の中心
・ヤーコブソンによる構造言語学的な音韻論の講義からえた教えは、
圧倒的な数の変異(ヴァリエーション)に直面していた民族学
(そしてレヴィ=ストロース)に、
重要なことは、多数の多様な項それ自体の個性を考察して、
なにかそれらの項の背後にあるものに還元しようとすることではなく、
「その多様性(ヴァラエティ)の全体を通して不変なものを見つけだす」
ことなのだという教えだった
・プラハ言語学による音韻論は、
物理学=音響学的に記述される音(物質音)といしての「音声」とは区別された、
言語学としての「音素」を発見したことによって誕生したといってよい。
音楽は、物理音としての実質をもたず、
音素相互の対立関係(差異)からなる体系に
位置づけられてはじめて成り立つものである。

第3章 インセストと婚姻の謎解き
「親族の基本構造

・『親族の基本構造』の独創的なところは、
この二つの謎にたった一つの答えを出したことにあった。
その答えというのが「女性の交換」である。
・インセスト・タブーは、
それぞれの文化によって恣意的で特殊な規則でありながら、
普遍的なものという性質をもっているゆえに、
自然と文化を分けると同時につなぐ蝶番となっているような
特異な規則だというのである。
・レヴィ=ストロースのこの見方の革命性は、
個々の家族や親族集団というものが自足した集団であり、
それらの集団を基点として社会体系が作られるという
従来の社会人類学的な見方を転覆させて、
それらはむしろ社会を生成する交換関係(連帯)のための
さまざまな様態として出てくるものであるとみなした点にある。
・互酬的な贈与交換のゲームから再分配のゲームへと交換ゲームじたいが変換される
・採集狩猟社会から定住農耕社会への移行→定住集団・土地の占有→土地の相続→子供の重要性・希少性

第4章 ブリコラージュVS近代知
「野生の思考」「今日のトーテミズム」

トーテミズムは、自分たちの世界を
「未開」とは相容れない合理的な世界とするために創りだされた幻想であり
、 それと同じような観念が自分たちの文化にも
存在することを否認するために必要な幻想だったというわけである。
・『今日のトーテミズム』での有名な言葉を使えば、
それらの動植物は「食べるのに適している」からではなく、
「考えるのに適している」ことから選ばれているのである。
・「類似しているのは類似性ではなくて、相違点」(『今日のトーテミズム』)
・二つの項が類似性によって結びつくことを、
・ブリコラージュの比喩の核心は、
新石器時代から現代まで続いている具体の科学を、
近代科学とは区別した形で表すことにある。
レヴィ=ストロースは、具体の科学をブリコールの仕事にたとえる一方で、
近代科学(正確には西洋近代に特殊な思考)をエンジニア(技師)の仕事にたとえている。
・近代の知が用いるのは「概念」なのに対して、
野生の思考が用いるものは「記号」
・シニフィアンとシニフィエが相補関係にありつづけるために、
いかなる価値をも自由に処理できるシニフィアンによって
不在という徴を与えられたシニフィエが必要となる。
そのようなシニフィアンとシニフィエからなる記号を、
レヴィ=ストロースは「ゼロ象徴価値の記号」(ゼロ記号))と呼んだ
・資本主義におけるモノが本来あった場所から切り離されて
断片化=商品化されるとき、
モダンにおいては全面的な計画から用途が固定されるし、
ポストモダンにおいては、
その固有の歴史性や多義的な固有性も剥ぎ取られてしまっている。
それに対して、特定の時代に限定されない普遍的な思考としての
ブリコラージュは、断片の固有の歴史や潜在的な多義性を
そのままにしながら、
ちぐはぐではあっても特定の役に立つような総体を作りだす。

第5章 神話の大地は丸い
「神話論理」

・「バラ模様型測量」
・新しい神話資料が結局は出発点に戻ることを、
レヴィ=ストロースは「神話の大地は丸い」といい表している
(『蜜から灰へ』)
・遠く離れた神話同士の一致ないし厳密な対称性を、
レヴィ=ストロースは、
神話が直接に歴史的な伝播をしたことを証明するものとはせず、
神話変換の連鎖の果てにもとに戻ったものと捉える。
そのような神話変換の連鎖は無限に続くわけではなく、
またもとに戻ることに特徴がある。
「神話の大地は丸い」のだ。
・「人間が神話のなかでいかに思考するかではなく、
神話が人間のなかで、人間に知られることなく、
いかに思考するかである」
(『生のものと火にかけたもの』「序曲」)
・神話の目的はただ一つの問題、
すなわち連続と不連続のあいだの調停であるという見解
・連続と不連続の対立は、
言語の獲得による認識論上の差異の世界への移行や、
婚姻(女の交換)の規則の成立による社会的な差異の世界への移行など
が取り返しの移行であるように、
根源的な対立であり、いかなる調停も不可能なものである。

【おわりに】 歴史に抗する社会
非同一性の思考

・レヴィ=ストロースが退ける歴史とは、
一言でいえば、近代のネイションやエスニック集団や階級などの
非真正な社会様態の集団が、
現在における自己の位置を測定するための
単一のマクロな歴史である。
それは、歴史に客観的な発展法則があるとしたり、
歴史に「自由な意識の進歩」といった究極の目標があるとするような、
西欧近代に生まれた歴史意識なのである。
・「われわれの文明は、
いってみれば歴史を内在化してしまっている文明で
、 自分の過去との関係のもとに自己を考える文明なのです
―その過去をたえず否定して、未来を築きあげようとするのですが、
しかしこの未来はその過去とのある種の関係
(弁証法的と呼ばれているものです)を保持せざるをえないのです」
・レヴィ=ストロースは、フロイトが、『夢判断』のなかで、
夢の顕在的内容と潜在的な夢思想とを区別しながらも、
夢の本質は、その潜在的内容にあるのではなく、
変形を行う夢の作業にあると述べていたように、
無意識の本質を変換の構造的規則に求めている。

 

 

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