2017.10.22

『紀元2600年 消費と観光のナショナリズム』 ケネス・ルオフ 著 木村剛久 訳 2010年刊 朝日新聞出版

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紀元2600年 消費と観光のナショナリズム
ケネス・ルオフ 著 木村剛久 訳
2010年刊 朝日新聞出版

 

15年に及び整えられていった総力戦体制は、
意外にも経済を活性化させていった。
紀元2600年(1940年)は、いよいよアメリカとの闘いが
迫って来ていたにもかかわらず
神武天皇を祀る奈良に3800万人もの人が訪れ
東京の百貨店の愛国催事は1日40万人という多くの人で溢れていた。
雑誌は神国日本を称える懸賞募集で盛り上がり、
誰もがラジオに耳を傾け、レコードは2100万枚も売れていた。

消費を一方向に傾けるファシズムは
極めて確実に儲かるバブリーな商売でもあった。
軍隊が国民に戦争をさせたのではない。
国民が戦争で盛り上がっていったのである。

当初は絶対勝てるはずがないと正しく認識されていた戦争が、
いつの間にか<だから負けるはずはない>にひっくり返っている。
戦場に行かなかった市民もまた戦犯だった。
近代の戦争は政治家や軍人が勝手に起こせるものではない。
近代メディアと近代兵器の凄まじい発達に
愛国の熱狂が混じり合って戦争に点火したのである。
そしてその状況の根本は今も変わってはいない。

以下、本文より・・・

日本の読者に向けて

・戦前の日本では、観光は1940年、
つまり紀元2600年にピークを迎えていたのである
・アジア太平洋戦争が消費主義を抑えるので、
それを加速し、消費主義がナショナリズム感情をあおり、
ナショナリズム感情が日本人にいっそうの消費を促すといった
フィードバック関係が生じていたという事実
・いわゆる「暗い谷間」神話を全面的に疑う
・戦時であっても、とくに戦争が海外で
くり広げられているときは、
多くの人にとって生活は支障なく、快適にいとなまれる

 

序章

・記憶が個人の自覚をかたどるように、
国民の記憶は国民の自覚をかたちづくる。
国が祝典を催すのは、国家共同体の一体感を維持するのに
欠かせない集合的な記憶を強化するためだといっておよい。
・「万邦無比の国体」という言い回しには、
国体の根幹をなす万世一系という考え方だけでなく、
日本独自とされる道徳的で古代的な価値が含まれていた。
国体という漠たる観念は、ほとんど明確に規定されないまま、
帝国日本が偉大で独自であるゆえんを
それとなく指し示していたのである。
・文化活動を担う民間のスポンサーは3つあった。
←新聞社(広い意味では印刷メディア)、百貨店、鉄道会社
・万世一系は、当時の日本による軍事的海外進出を
正当化するためにつくられた思想
・百貨店や新聞社が何よりも興味をいだいていたのは、
2600年記念行事を盛りあげ、「2600年消費」を当てこむことだった
・新高山は大日本帝国内最高峰だった
←台湾名玉山 3952m
・広く質素倹約が奨励されるなかで、
旅行だけは国家の使命に沿うものとして認められていた
・帝国1億500万臣民(うち内地は7300万人)の多くが、
紀元2600年を祝う1万2000以上の行事に参加した。
また、1万5000の公共事業計画によって、
文字どおり日本各地の刷新が遂げられている。
・20世紀前半は共産主義、自由民主主義、ファシズムが
「これまで存在したのとは根本的に異なるかたちで、
国家と国民が結びつく新しい形態の政治によって、
近代の危機を克服しようと」それぞれが競っていた
←歴史家トニー・スミス
・1930年代にドイツやイタリアの大物たちの多くが、
うらやましく感じたことは、
日本には国民を隅々まで有機的に統合しうる、
皇室を中心とする祖国崇拝がみられたことである
・日本はみずからの帝国のなかに、
西洋の列強が築いてきたのとそっくり同じ人種的、
文化的ヒエラルキーをつくりあげていた。
・紀元2600年記念行事に関しては、
もっとも当てはまる概念は近代性(モダニティ)である
・基本的な生活レベルを超える消費主義というかたちが崩れるのは、
42年半ば以降に戦況が悪化してからである
・一層目を独占していたのが米国である。
40年の時点で、米国の経済規模はイタリアの6倍、日本の5倍、
ドイツ、ソ連の2.5倍、英国の3倍に達していた

 

第1章 国史ブーム

・皇国史のなかでも、群を抜いて徹底的に研究され、
あがめられ、詳細に記述されたのが、神武天皇の偉業である。

・マスメディアは政府にしたがって、
しぶしぶ紀元2600年行事を受け入れたというより、
むしろ積極的にそれを応援した
・30年代後半から40年代にかけて日本の出版業が拡大したのは、
戦争景気に加え、メディアの浸透によって
20年代に世界じゅうで進展した大衆社会が深化したことが、
その背景にある。
・宮崎県の当局者は、宮崎こそ日本発祥の地だと頑固一徹を貫き、
文部省がお墨付きを与えた21の聖蹟と同じような石碑を、
宮崎神宮の近くに立てた。高千穂宮はこの近辺にあったというのである。
・橿原道場は橿原神宮の外苑に位置し、
「国民行道の修練場」というべき役割を果たす
・大川(周明)は中国を常に罵倒している。
多作で知られた大川は、当時、日本で最も著名なイスラム学者であり、
とりわけ日本が1905年にロシアを打ち破ったことが、
西洋帝国主義のくびきにつながれていたすべての者にとって、
どれほど意義があったかと繰り返し述べている。
・小熊英二によると、大川の考え方は「混合民族論」、
1930年代に支配的だった単一民族論とは一線を画しているという
・大事な点は当時の支配的な考え方が、
日本人の多くが海外からの移住者の血をひいているのを
認めていたということである。
これは日本人の国民性をracialにではなく、ethnicに、
つまり血縁的人種としてではなく文化的民族として
解釈したものといえるだろう。
・「ファシズムの基本的なシンボルであり、
その名のもととなったファッショは、
両刃の斧の回りに短い棒を束ねたファスケスが語源、
ローマの裁判官を従えた神官が、
ファスケスをもっていたことから権威の象徴とされていた」
←美術史家 マーラ・ストーン

第2章 大衆参加と大衆消費

・家庭では2月11日の建国祭を「桃の節句」ならぬ
「梅の節句」として祝った
・1940年、大日本帝国全域では、
学生だけではなく成人もこぞって、
決められたやり方でさまざまな愛国的儀礼を
おこなうよう指示が出されていた。
たとえば元旦には、すべての帝国臣民は
早朝まず神社を拝み、
それから午前9時きっかりに宮城を遥拝し、
一斉に「天皇陛下、万歳」と叫ばねばならなかった。
←「時間支配」原武史
・帝国内のほとんどすべての人は、
階級や民族、その他さまざまのちがいを忘れて、
一分間、同じ儀礼に加わることができた。
・肉体労働に参加することが、都市と農村の分離や、
知識階級。労働者・農民の対立を克服する手段として
役立つのではないかと考えていた
・勤労奉仕は、天皇崇拝を中心とする民間信仰を補強するための
さまざまな装置のひとつだった
・38年7月号には「愛国行進曲」に合わせて踊るために
32のステップが図入りで詳しく紹介されている
・36年のピーク時には帝国日本におけるレコードの販売は
3000万枚近くに達していた。
そして、40年でも、日本の消費者は2100万枚もレコードを買っていた
・愛国的なテーマの歌詞を選ぶこうした募集には、
多くの募集が寄せられていた。
これらを主催したのは、ほとんどが新聞社や出版社で、
例外は陸軍省と大政翼賛会
←高い懸賞金と高い注目度は発行部数を増大させた
・世界を5地域に分け、そこら選ばれた最優秀者には、
日本までの一等往復切符と、三カ月の日本滞在を保証したうえで
3000円の奨学金が与えられることになっていた。
←国際文化振興会
・ビジネス上重要だったのは、最初の発表や増えていく応募者数、
その選考過程が記事のネタになっただけでなく、
最終決定の様子や受賞の模様(できれば両方)も
取りあげることができたことである。
歌の懸賞募集でもっともドキドキするのは、
当選作が発表され、そこで歌詞が紹介される瞬間だった
・新聞は紀元2600年を祝うこうした催しは、
国に奉仕するものだと強調していた
・百貨店は大規模な小売店舗であると同時に
レジャーの場所でもあった
・東京では開店日に平均して40万人が百貨店を訪れた
←1940年 愛国催事
・零戦は紀元2600年の年号にゼロがふたつ付いていることにちなんで
・「もはや個人の幸せのために結婚を考えるわけにはいかない。
良い結婚とは、国家を強くするためのものだ」
←『主婦之友』1940年9月号
・そもそも天照大神は、帝国日本でつくられた
国史の中心をなす太陽神であり、
そして国史をつくること自体が近代的だったといえるのである
・大和民族の優越性を誇るという反動性に
凌駕されることのなかった日本の突出した近代性
←紀元2600年を論じる際の主要テーマ

 

 第3章 聖蹟観光

・宮崎がみずから肇国の聖地と名乗った一件は、
全県にちらばる史跡が商品化されていたことを特徴づけている
・はるか昔にさかのぼるとされた伝統行事は、
昔の理想化された田園を探し求める都会人をひきつけた

・写真撮影は観光と密接につながった趣味であり、
1930年代後半には、有名な場所の写真を選考する
懸賞募集がごく普通におこなわれていた。
・紀元2600年に奈良を訪れた旅行客が
累計で3800万人を数えた
・「国民が神武神話に参加する装置」としての橿原神宮
←歴史学者 高木博志
・紀元2600年当時、何百万もの日本人が加わった聖蹟観光が、
国の強制によってではなく、自主的になされた

 

第4章 朝鮮観光

・「植民地秩序は臣民のなかに同一性と差異をともにつくる必要があった」
歴史学者 テッサ・モーリス=スズキ
・福岡を経由して6時間足らずで東京と京城(ソウル)を結ぶ飛行機が、
1940年には毎日運行されるようになっていた。
・紀元2600年記念行事が繰り広げられた当時、
日本でもどこでも、資本主義的近代と帝国、
軍国主義が交わる部分に浮かびあがる象徴が飛行機だった。
・41年10月の京城は内地人であふれていた
・朝鮮はかつて進んだ文明を誇ったものの、
その後、衰退したため、日本が干渉せざるを得なかった
という言い方は、フランス領インドシナの歴史について、
1930年代のフランスの旅行ガイドに書かれている
言い草とまるで同じである。
・実際、植民地時代のこの10年に、
朝鮮人による観光はピークを迎え、
その一方、愛国的な朝鮮人にとって妙香山は
日本の支配に対する抵抗のシンボルとなっていた

 

第5章 満州聖地観光

・満州では戦跡が広く宣伝されていた
・「八紘一宇」←田中智学による考案
・それと同じ時期、(ハルピン)市内から15キロほど
南の平房では、生物・化学兵器の研究・開発にあたる、
いまでは悪名高い「731部隊」の隊員が、
拘束した中国人「匪賊」や監禁者に対し、
身の毛もよだつ人体実験を繰り返していたのである。

 

第6章 海外日本人と祖国―海外同胞会

・7300万人の日本人の25分の1が、
日本の内地以外の地域で暮らしていた
←1940年 300万人以上
←満州国157万、中国34万、ブラジル19万、
ハワイ15万、米国本土11万、
植民地の朝鮮・台湾・樺太計120万
・地元の領事はしばしば恐れられ、
日本人移民社会から嫌われていた
←日本軍に徴集する権限
・37年にはペルー生まれの日系ペルー人の国籍を剥奪

 

結び

・帝国時代においても、混合人種国家という崇高な理念は、
もともと首位の血統が定まっていたために、最初から揺らいでいた
・問題は、国の史跡観光が、もっとも不愉快な政府のもとで
存在し、流行していたということである。
史跡観光はまさに体制を支えていたのだ。
・福沢(諭吉)は明治初期の国民を「ゴム人形」にたとえている
・2600年の記念行事は、
ロマン主義的ナショナリズムと一体となった近代化、
すなわち歴史学者のジェフリー・ハーフのいう
反動的モダニズムの産物であるにせよ、
近代化の縮図だったことはまちがいない。
・45年8月15日の正午に
人々がどこでもラジオの前に集まることができたのは、
「時間支配」の賜物であったともいえよう。

 


 

 

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